「算数と数学は違う」なんて誰が決めたのだ?

もう少し「掛け算の順序」問題を追ってみたい。なお、前後の流れをご存じない方は

をご覧頂きたい。

今回の記事はその補足というかトラックバックへの応答になるが、その前に一つだけ確認しておきたい。題名にも挙げたが、そもそも「算数と数学は違う」などと誰が決めたのか、である。

勿論、大学で講義・研究されているような現代「数学」と「算数」が違うのはその通りだ。前者では定義・定理・証明という流れの中で堅固な論理体系を構築することが大前提だが、後者はそうではない*1。しかし、いくらなんでも「数学」で正しいことが「算数」で正しくないことはないはずだし、数学的正しさよりも「空気読み力」のようなものがそこでは優先される理由などどこにもないはずだ。

そんなことはない、と言いたい方には、一つだけ反問しておきたい。
そんなこと、誰が決めたのだ?
所詮はただのあなたの思いこみであろう。そんなもの、学問の普遍的な正しさの前では何の価値もないことである。

「型にはめる」ことは型が正しいときのみ意味がある

というわけで、まずはかけ算序列話の続き・・・あるいは小学生向けガリレオ裁判 - ka-ka_xyzの日記への応答。

「算数」的な、ある程度型にはめる考え方を全否定してしまうのは危険で、初等教育の段階で一握りの天才以外の大多数が落ちこぼれるだろう。九九の暗記とか、かなや漢字の書き取りとか、型にはめて”そういうモノだ”として教えないとにっちもさっちも行かない部分ってのはある訳で。

かけ算序列話の続き・・・あるいは小学生向けガリレオ裁判 - ka-ka_xyzの日記

その考え自体は正しい。しかし、「型にはめる」ときの「型」は、さしあたり「正しさ」が何らかの意味で確認されているものに限る。「掛け算に順序がある」という考えはそもそも間違っているので「型」としてはふさわしくない。言ってみれば「カタカナ発音」のようなものである。誰もがいきなり外国語で正しい発音ができるとは限らない*2が、だからといって正しい発音とカタカナ発音の違いに気づいている生徒にカタカナ発音を強要するのは全く無益なことだ*3。「できない子」への配慮だとか色々理由をつけたところで無駄である*4

それにしても、このへんをねじ伏せること無く説明できる小学校教師ってどれぐらい居るんだろうか。

かけ算序列話の続き・・・あるいは小学生向けガリレオ裁判 - ka-ka_xyzの日記

無理でしょう。どう言いつくろってみても黒を白と言いくるめる話なのだから、詭弁を使わずにはできません。原理的に。

同志、それはダブルプラスアングッドです!

さて、私のような人間を「真剣に死んで欲しい」とまでおっしゃる真理省のお役人にもの申すことにしよう。

百歩譲って仮にそんなものが必要だとしても、「『かけられる数』を前に書く」という見るからに不格好で美しくない「ルール」、「かけ算とは、同数累加の略記法である」という冴えない「定義」は所詮、「前置修飾という日本語の構造」という、「日本の学校」特有の事情から生まれた便宜上のものに過ぎず、工事現場の足場のように、用が済んだ後は取り払われるためだけのものなのである。

同感です。用が済んだ後は取り払われるものでしょう。用が済んだ後は

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

私の言っている意味を全く理解できていない証拠である。この文脈で「用が済む」とはつまり交換法則を理解することである。理解できている子供の心の中には既に「掛け算」の建物は建っており、足場などはとうに「用が済んで」いるのである。

自慢ではないが、私がそのことを理解できるようになったのは二十歳を過ぎてからである

適切な指導教員に恵まれずご愁傷様です。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

つまりあなたは、「教師の中には知識だけではなく知恵もない人間が多くいる」ということを小学校2年生の子供に理解させるのが「適切な指導教員」だと思っておられるのですね。なるほど。

幼稚だから「幼稚だよ」と切り捨てているのですが。自分の子ども相手でも「幼稚だよ」と切り捨てるでしょう。幼稚なものを助長するよりは幾分マシな教育方針かと思いますし、試験の点数にアイデンティティを感じているようなガキがいたら、掛け算の順序などよりもそちらをどうにかするほうを最優先すべきでしょう。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

誤解してもらっては困るのだが、大事なのは「試験の点数が下がる」ことではない。「正しいことを書いているのに×をつけられる」ことだ。これはまさに、「権力によって正しいことをねじ曲げられる」という深刻な政治的葛藤なのである。子供が容易に処理できる感情ではない。
また、これは私の主観でしかないが、子供のやることを「幼稚だ」と切り捨てるような態度が正しい教育的態度とは私にはとても思えない。あなたのいう「幼稚」さは、クラスで仲間はずれにされただけで自殺する子供の行動を「幼稚」と表現するような意味での「幼稚」さなのだ。世間ずれした大人にとっての些事が子供にとっては大事であることなど当たり前であり、それにきちんと向き合わない大人は指導・監督者としての責任を放棄していると言わざるを得まい。

アカデミズムを問題にした記憶は無いですし、アカデミズムは無関係だと思います。「お皿の上にリンゴがみっつ」にはアカデミズムをかけらも感じないですし。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

こちらも「アカデミズム」などを問題になどしていない。あなたが「コミュニケーション能力」などというから、学問上の「コミュニケーション」について語ったのだ。最近流行の軽薄なカタカナ語を使えば「ロジカル・スピーキング」だ*5。それほどまでに「空気読み能力」を育てたいのであれば子供を自己啓発セミナーに放り込めとでも主張してみるがよかろう。

先に言っておくと数学的な正しさや行列演算には特に興味が無いです。自然数の掛け算を問題にするのに集合論まで話を広げる必要があるなら仕方ないですが。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

ならばこのような目を剥くようなことを平然と主張しないでいただきたい。

私は「5×3は間違いである」と主張していますが。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

本気でそう信じているならばあなたは小学校の算数をやり直す必要がある。教師用指導書はトンデモ本なので、その教師が教祖と崇めまつる遠山啓の本を読むとよいだろう。信者達がそれをねじ曲げてしまったというだけで、遠山の言っていることは少なくとも数学的には正しいのだから。

*1:ただし、公理主義が数学の本質でないことには注意したい。そのあたりの事情についてはそれでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿であるを参照。

*2:そもそも「正しい発音」とは何かという問題もあるのだが、今回は勘弁していただきたい。とりあえず、その言語が話されている社会・文化圏で違和感なく通用する発音、という程度のことで了解願いたい。

*3:インドネシア語スペイン語フィンランド語はカタカナ発音で問題ないとの話も聞くが、ここでは一般論として考えていただきたい。

*4:ついでながら脱線。英語について「カタカナ発音でも問題ない」とする主張を稀に見かけるが、本気なのだろうか?カタカナ発音は音節構造を破壊してしまい、数ある訛りの中でも非常に聴き取りにくいものであることは確かだと思うのだが。私自身、韓国語訛り、中国語訛りの英語よりもカタカナ英語の方を聴き取るのによほど苦労する。なお、英語が「国際語」としてふさわしいかというのはさらに別の問題であるので注意(個人的には大反対である)。

*5:もっとも、「ロジカル」とカタカナで付くもののほとんどは実際に論理的であったためしがないというのもまた真理であろう。