お前の大事は俺の些事、俺の大事はお前の大事

今回の福島第一原発事故に限らず、公害問題といえば必ず引き合いに出されるのがイプセンの「民衆の敵」である。この作品では、村の繁栄の拠り所である温泉が病原菌に汚染されていることを告発しようとした医師が「民衆の敵」のレッテルを張られて村八分に遭う、という筋書きで、まさに一部の反原発派が我田引水したがるような話であろう。

だが、この話のその後はほとんど語られることがないようだ。新聞社は当初正義を語って主人公の医師の味方をしようとするのだが、主人公の目的が村当局を攻撃することよりも事故を未然に抑止することにあるとなると途端に掌を返して主人公を「利権目当ての御用学者」扱いし、「民衆の敵」のレッテルを張るのである。そして大衆はそれに付和雷同し、激怒した主人公は村民を集めた集会の席で「進歩的で堅実なる多数派こそが真理と自由の最大の敵だ!」と絶叫するに至るのである。

またヴォルテールの「カンディード」はリスボン大震災を目の当たりにした作者が世の不条理さに打たれて書いた小説だが、その中に、震災後の混乱状況で民衆の不満を逸らすために異端審問と火炙りが行われる下りがある。

巷に渦巻く放射能パニック、そして有力学説を述べただけの山下俊一、中川恵一、菊池誠の各氏ら、本来「原子力村」と何の利害関係もないはずの学者たちまでもが「御用学者」のレッテルを張られて袋叩きにされている現在、これらの諸作品を読み返すと、つくづく人類は進歩しないものだと思わずにはいられないものである。

まさに「歴史の教訓」に学ぶという態度が欠けているのである。

南京大虐殺ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

さて、そうした嘆かわしき現象には義憤に堪えない私なのであるが、社会の場末であるblog界の中でもさらに場末な本blogでも扱える程度の事件というのがあったので取り上げておく。

まとめよう、あつまろう - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/262769

片瀬氏の発言のどこが問題なのかまるで理解できないのは私だけであろうか?余程の色眼鏡で見ても、片瀬氏が歴史修正主義に宥和的とはとても思えない。それにもかかわらず、この集中砲火の嵐。

結局のところ、南京大虐殺について少しでも「政治的に正しくない」いや、「政治的な模範解答と違うとの誤解を招きかねないこと」を言及することが許されない、ということのようにしか思えない。ご真影に傷を付けたから死んでお詫びをする、というような時代錯誤な認識ではないのだろうか。今は2012年である。傘寿を迎えたような人でも1937年当時は幼児である。もはやバブルの狂躁を覚えているのが中年以上の世代であるのと同様、現在生存中の人のほとんどは当時の雰囲気を直に体感していないのである。現在のフランス人がナポレオン戦争について何らの責任もなければ後ろめたさを感じる必要すらないのと同様に、ある程度より下の年代が南京大虐殺を「生々しい話」と感じていなくてもそれは当たり前のことであるということは認識していただきたい。

「日本の犯罪」と言われても、そもそも「日本」と自分を同一化しているのは右翼と左翼の人たちだけなのである*1

その程度の感覚の違いにすら想像力が及ばない人間がよくもまあ「想像力の欠如」などと言えたものだと思う。

片瀬氏の発言の何が問題なのか

と、主観論だけで終わっても何なので、上記リンク先の片瀬氏の発言のうち、問題視されているものだけを拾い上げ、同氏に寄せられた非難がいかに理不尽であったかを示しておくことにする。

なお、「歴史修正主義者」との言いがかりをつけられる前に断っておくが、私自身の「南京大虐殺」に関する認識は秦郁彦南京事件」(asin:4121907957)と笠原十九司南京事件」(asin:4004305306)氏の新書を読んだ程度である。そして同時に、私は世の中の平均から見て近現代史に興味がかなり強い方であると思うし、勉強不足と罵られる筋合いもないと言っておこう。

同氏の発言で最も非難されているのがこれだ。

その新書自体に変な色が付いていないという保証も無いですし…。決定版みたいなものが無いから問題がややこしいんじゃないでしょうか? RT @_nagashimam:新書一冊ぐらい読んでからにした方がいいとは思いますが^^;;

Twitter. It's what's happening.

これのどこが非難に値するのかまるでわからない。例えば「決定版」として通常推されるのは上記両書だが、両書の結論はトンデモではない範囲ではかなり両極端に異なっており、方や死者数は数万どまり、方や十数万以上である。無差別殺戮として東京大空襲ドレスデン爆撃の規模を下回るのか、広島や長崎への核攻撃の規模に至るのか、という違いである。

また、秦郁彦氏は「新しい歴史教科書をつくる会」に関わっているし、「新書自体に変な色が付いていないという保証も無い」という懸念を持つのは余りにも当然ではないか。また、笠原十九司氏は著書の中で変な俗流心理学本に傾倒していることを公言したりなど、この人もかなり癖の強い人であることは違いない。

正直言って、素人目には「どちらもかなり変わった人なので、『少なくとも両書に共通して述べられていることは現在知りうる限りまず間違いなく正しい』程度の態度で見ておこう」という程度の慎重な見方をせざるを得ないのが当然ではないだろうか。

これに対して寄せられた批判はいずれも以下のようなものだ。

@kumikokatase そういう発言が、カジュアルで無自覚な歴史修正主義者の発言と酷似してるから批判されるんですよ。発言の主観的意図と、話者を離れて社会的にその発言を位置付けられた時の意味の違いにもっと敏感になった方がいいですよ。

Twitter. It's what's happening.

明らかに、片瀬氏は歴史修正主義に宥和的だと決めつけている。これが色眼鏡でなくていったい何なのか。上に述べたように、歴史修正主義を警戒する立場であってさえ片瀬氏の発言は成り立つのである。同氏が

南京事件については、南京大虐殺はなかったとする立場で調査した「南京戦史」http://goo.gl/QALVl はかなりオススメ。図らずも少なくともこれだけのことは確実にあったんだなという読み方ができます。おいそれと「無かった」なんていう状況ではないと分かるはず。

Twitter. It's what's happening.

などというシニカルな発言をRTしていることからみてもこのことは裏付けられよう*2

また、

b:id:D_Amon 永久に無知に居直った「中立」でいるために「知りたくない」のではないのであれば史実派の本も否定派の本も多数読み込めばいい。位置取り優先なら「南京事件をどうみるか(藤原彰)」を読んでから自分自身を見ればいい 2012/02/23

はてなブックマーク - 片瀬久美子🍀 on Twitter: "その新書自体に変な色が付いていないという保証も無いですし…。決定版みたいなものが無いから問題がややこしいんじゃないでしょうか? RT @_nagashimam:新書一冊ぐらい読んでからにした方がいいとは思いますが^^;;"

のような批判については、「みんながみんなネット上の口喧嘩のために命まで張るような危険人物とちゃうねん」としか言いようがないところであろう。

俺がアホならお前もアホや

まあ、一億歩譲って片瀬氏が本当に歴史修正主義に親和的だとしよう。だとしても、原発関連でトンデモに親和的なあなた達がそれを言う資格があるのか、と思う。

冒頭に述べたように、「御用学者」「エア御用」などと人格否定をされ続けている科学者達はただ「有力な学説」を述べただけである。それを「原子力村の御用学者」と非難するというのは、例えば笠原氏あたりが歴史修正主義者から「売国奴」だの「中国の御用学者」と非難されたのと何も変わらない。そしてその理不尽な非難に対して宥和的な態度を取ること自体、一部保守派が歴史修正主義に宥和的な態度を取っていたことと全くもってそっくりである。あなた達はそういうことを非難してきたのではなかったか。

ああそうですか、「学説を述べるという行為も政治性を帯びる」ですか。だとすれば歴史学者が何か言ってアカ呼ばわりされても当然と言いたいのですね、なるほど。何?「放射線防護学は原子力村からの政治的圧力が云々?」ああそうですか、だとしたら某国だの某党だの色々こちらも陰謀の種には事欠かなさそうですね。「確かなことが言えない以上安全側に見積もるのが当然」というのなら同じ論法で日本の戦争犯罪も相当程度に矮小化することができそうですよ。秦学説を採用するだけで犠牲者数は格段に減らせる訳ですからね。いやいや、ECRRでさえ認めるなら「まぼろし派」だって認めてもよさそうですね。

かくのごとく、あなた達が「エア御用」に向けた非難はまさに「天に唾」*3となってあなた達自身の頭上に降りかかってくるのである。

そんなこともわからないのに賢しらぶって下らないことを色々言わない方がいい。

b:id:tari-G エア御用の末路 結局、エア御用の常として人文社会科学の素養がゼロないしマイナスだから、確かに読んでも無駄だろう。結局妄言しか吐くことができない。 2012/02/23

はてなブックマーク - 片瀬久美子🍀 on Twitter: "その新書自体に変な色が付いていないという保証も無いですし…。決定版みたいなものが無いから問題がややこしいんじゃないでしょうか? RT @_nagashimam:新書一冊ぐらい読んでからにした方がいいとは思いますが^^;;"

全くもって片腹痛いとはこのことである。「学問」とはどういう営みであるかわかっていないこの人にだけは片瀬氏も言われたくないであろう。

蛇足

本記事は福島産の純米酒を飲みながら書きました。ああ美味い。福島の酒ってとても美味しいよね。ナントカの一つ覚えで「政府は信用できない」だとか「科学者の政治性が」とか小難しい屁理屈を捏ねることしか能がない人はこういう楽しみと縁がないんだろうな。酒飲みでありながら訳もわからずに放射能放射能とギャーギャー言っている連中はこういう風に人生を損してるんだろうなあ。かわいそうにねえ。

まあ私はその類の「進歩的で堅実なる多数派」は大嫌いだから、そういう連中が人生を損するのは全くもって慶賀の至りなのだが。

*1:1930-40年代の日本の戦争犯罪を「恥ずかしい」と感じる根性は1980年代生まれの私には理解できない。余程「日本」と自分を同一化しているのではないかとしか思えない。同様に、ドイツやイタリアに観光旅行してヒトラームッソリーニの存在をビスマルクガリバルディ以上に身近に感じることは我々の世代にはもはや難しいのである。

*2:なお、この発言が「まぼろし派」に親和的に読めるなら、誰かさん流にいって「国語の成績が悪い」としか言いようがない。

*3:どうでもいいが「ブーメラン」という言葉は嫌いである。ブーメランは獲物を攻撃できたときには戻ってこないし、戻ってきたとしても自分を攻撃する訳ではなく武器を失さないためなのである