「掛け算は非可換」論者は日本版の「創造説」論者である

先日の記事それでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿であるは怒りにまかせて喧嘩腰に書いたもので、内心を有り体に言えば「屁理屈を捏ねて子供をいじめる半可通ども、この印籠が目に入らぬか」というようなものだったのだが、思いのほかの好反響で驚いている。

だが、さらに憎まれ口を聞くことにしたい。理由であるが、

  • 誰が何と言おうが、指導要領や教科書に書いてあれば全て正しい
  • テストの○や×に四の五の言うな

という態度が、片や科学技術で飯を食うものとして、片や子供の頃教師の「善意」に苦しめられたものとして、絶対に許せないからだ。

スターリン体制をモデルにしたディストピア小説1984年」の中で、作者ジョージ・オーウェルは主人公に

「自由とは、二足す二は四だと言える自由のことだ。これさえ認められれば、あとは全部ついてくる」

という台詞を言わせている。ところがその後、主人公は秘密警察に逮捕されることとなり、取調官は「党が二足す二は五だと言えばそれが正しいのだ」と主人公に言い放つ。そして最後、「二足す二は五」と思えるようになった主人公は、独裁者「偉大なる兄弟」を愛することができるようになっていたのだった。

残念ながら、「自然数の積は可換」ということを頑として認めない教師が支配する小学校の教室は、比喩でも何でもなく「真理省」*1だと言わざるを得ない。数学的真理以上に確かなものは世の中にない。それをねじ曲げるということはあらゆるものをねじ曲げることが許されるということだとなぜわからないのだろうか。

非可換な自然数の掛け算を創造する「高次の存在」

その意味で私が一番許せないのはこの発言だ。

うーん…交換法則もきちんと発見させた上で、あのテストは行われているんだけどなぁ。要するに、式を逆にしても答えは同じなんてことが完全に子ども達にも浸透した状態であっても、5×3は誤答という事なんだよね…。

RYU0508 (@suzusuke) | Twitter

この人が現役の小学校教師でなければただの愚かな思いこみにすぎないが、このような意識で子供達を見ているとしたらこれは犯罪といってもよい。この人のブログ記事から引用する。

式を聞かれたときは、式から読み取れる「考え方」が「指導内容と」合致しているかを聞いているのであって、正しい計算結果が出るように式を立てたかどうかを聞いているのではありません。
いくら数学的や考え方が合っていたとしても、指導したことと違うことを書いているので×をつけざるを得ないのです。

http://kidsnote.com/2010/11/15/35or53/

その考え方は直ちに改めてもらいたい。もし、指導要領が「天皇陛下のために死ね」と説いていたらあなたはそれを教えるのか。

逆にしてもいいとすることの弊害

  • 倍の概念が育ちません
  • 割り算の時にも引っかかりが出ます
  • 計算に小数が入ってきたときにつまずきます
  • 平均、単位量あたりの大きさでつまずきます
http://kidsnote.com/2010/11/15/35or53/

反例がここにいる。私は躓かなかった*2
当たり前のことだが、子供は規格品ではないのである。もしこれが計算機ならば「このソフトウェアはそのソフトウェアの前にインストールしなければならない、そうしないとライブラリが低いバージョンで上書きされてしまい、先にインストールした方が正常に動作しなくなる」ということはあり得るし、そういうノウハウは積極的に共有されて伝達されるべきであろう。しかし子供は計算機ではない。概念を獲得する順番など、まったく一定ではない。
あなたがどれだけ善意でもって、どれだけ過去の経験から学んで教育を計画したとしても、それが全ての子供に完璧に当てはまるなどと考えるのは傲慢極まりない考え方だ。
ちなみに、米国にもあなたと似たような教師がいる。「人間は猿から進化した*3」と教えれば、「人間の尊厳」が身に付かない、と考えて、「地球は四千年前に『高次の知的な存在』が想像した」と教えるのだ。そう、「創造論者」である。
あなたやこのような教師が「善意」でこういうことをやっているという事実自体を否定するつもりはない。しかし、「善意」があれば嘘をついてもよいという集団がどのような結末を辿ることになるかはオウム真理教連合赤軍などが十二分に証明しているだろう。

同じようなことを主張してのける人は他にもいる。

もちろん,「と表すことができる」であって「と表さなければならない」ではないのだから,逆の書き方だっていいじゃないかと言うことは可能です.そう主張する人は,それで統一すればいいんじゃないでしょうか.私は,結論は同じでも見せ方次第で分かりやすくも分かりにくくもなり,分かりやすくする手段の一つが「標準的なものを採用すること」だと,プレゼン指導を通じて強く感じているので,乗算の立式は

乗法は,一つ分の大きさが決まっているときに,その幾つ分かに当たる大きさを求める場合に用いられる。つまり,同じ数を何回も加える加法,すなわち累加の簡潔な表現として乗法による表現が用いられることになる。また,累加としての乗法の意味は,幾つ分といったのを何倍とみて,一つの大きさの何倍かに当たる大きさを求めることであるといえる。
(p.87)

という「標準」に基づいて行うこと,したがって例の画像については5×3=15という式をバツにするのに賛成です.

0×3と3×0は違う - わさっきhb

「プレゼン指導を通じて強く感じている」という程度の主観に基づいて客観的事実をねじ曲げることに「賛成」と臆面もなく言ってのける、こんな人が工学の研究者であるということを私は同業者として深く恥じるものである。

「知識があっても心は子供」

私が許せない言説のもう一つは以下のようなものだ。

そもそも義務教育とは国民の最低レベルを中卒レベルに引き上げるための制度であり、優れた子に英才教育を施す事よりも、おばかな子をまともな子にしてあげる事が優先されます。
最後の子が数学嫌いになる云々と抜かす方もいるようですが、心配しなくとも本当に賢い子は「式は"ぼくはわかっている"という事を先生に分からせるためのものなんだ」というルールをかなり早い段階で見抜きます。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

自慢ではないが、私がそのことを理解できるようになったのは二十歳を過ぎてからである。私は「優れた子」でありつつ、どうしようもなく「おばかな子」であったのだ。このような、「知識の多い子」と「世慣れた子」を同一視する視線に私はどれほど苦しめられたことか!

私は子供時代、早生まれだったこともあってどちらかというと同年代の子供よりも精神的に幼かった。周りの子供が「ドラゴンボール」を観始めている頃にまだ「にこにこぷん」を観ていた*4。単に、「コロコロコミック」や「少年ジャンプ」よりも算数や理科の本が好きだったという以外は、他の子供よりもむしろ余計に無邪気だったと言ってもよい。子供っぽい下らないいたずらを率先して行ったりもしたし、ちょっと悪口を言われたぐらいでムキになって怒ったり、まあ非常に「子供らしい」子供だったと思う。いずれにせよ、典型的な「優等生」ではなかった。

にもかかわらず、公立小学校の教師の大半は私をそのように扱ってくれなかった。最初のうちは「ちょっとからかわれたぐらいでムキになって怒らないの。あなた、頭いいのにそんなことがなんでわからないの」と言われ、そのうち「親に勉強を強要されて人格が歪んだかわいそうな子供」という風に扱いは変わった。実は私はそのどちらでもなく「学力面では早熟でも社会的にはその反対」という個性を持っただけのただの子供に過ぎなかったのだが、それをわかってくれたのは特に評判のよかった数人の先生にすぎなかった*5

どうして「勉強ができる」ことと「空気読み能力」が高いことに必然的な関係があると思いこむのだろう。ある程度の相関はあるのかも知れないが、私のように「人並み以上に勉強はできるが人並み以上に空気が読めない」という子供がいることぐらい、どうして想像できないのだろう。

そして、「子供の立場に立つ」と称する教師の多くは、「勉強ができる子供」を「人間味に欠けるガリ勉」という一面的なステレオタイプで切り捨ててしまうのだ。現実の子供がどれほど違った姿を見せていても、そのことには目もくれない。これが勉強ではなくてスポーツや芸事ならその子の「個性」を褒めることになんのためらいもないのに、どうして「勉強」だと差別されるのだろう*6。それでも、子供を育てるプロなのだろうか。本当に信じがたいことである。

試験の点数がちょっと低くなったから、だからなんだと言うのですか?定期試験のスコアで一喜一憂するなんてのは、ミニスカートの丈を競う女子高生以下でしょう。目的は学びであり、点数は目安に過ぎません。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

あなたが記事中で書いた「巫山戯るなボケ!」という台詞をそのままお返ししよう。「ミニスカートの丈を競う女子高生」は幼稚に見えるかも知れないが、当人にとってはアイデンティティを賭けた闘争かもしれない、その程度の想像力がなぜないのか!まし、掛け算を習う小学校2年生はその「女子高生」の半分程度しか人生経験がないというのに!

コミュニケーション能力を測っています。数式はコミュニケーションの手段です。可換なものを、どのような順序で並べるかという部分で、計算者の意図を表現します。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

何が「コミュニケーション能力」か*7。学術上の「コミュニケーション」とは、学問の対象から離れたものをできるだけ排除して、できる限り客観的視点だけで黒白をつけられるような禁欲的態度を指す*8。そのような場に「空気読み能力」のような不純物を持ち込むものこそ、真っ先に「トンデモ」扱いされて排除されるべきものである。

子供を「プログラミング」するな!

以上、色々述べてきたが、私の言いたいことは結局のところこの人が一言で述べていることに尽きる。

@kikumaco 「知識がある子供はケシカラン」。以前もそういう風潮はありましたが、ごく一部のベテランは「知識があっても心は子供」「知識は好きなだけ得ればよい、心のバランスを取りながら吸収させればいい」という対応ができた。今は、そういう対応のできる大人がいないのかもしれません。

KGN on Twitter: "@kikumaco 「知識がある子供はケシカラン」。以前もそういう風潮はありましたが、ごく一部のベテランは「知識があっても心は子供」「知識は好きなだけ得ればよい、心のバランスを取りながら吸収させればいい」という対応ができた。今は、そういう対応のできる大人がいないのかもしれません。"

本当に昔と現在で差があるのかは保留するが、少なくとも過去一部の教師がそのような対応をできたことは私は実体験として知っているし、現在「そういう対応」ができない教師が少なくとも一名存在することもまた確かなようだ。
いや、一人や二人ならよいのだが、教科書会社のトップ「東京書籍」に言わせると、「5×3≠3×5」らしい。 - 小学校笑いぐさ日記のように、教科書会社の本音がそのようなものなら問題は深刻だ*9
このような教育が罷り通る背景には、「子供はこのようなものだ」という思いこみがあると言って差し支えないだろう。「自分たちは子供のことがわかっている、子供はこのようなものだ、だからこそこのように教えることが正しい」。まるで計算機を扱う態度である。計算機をプログラミングするのであればデータシートを見てその通りに作れば基本的には問題ない。予期せぬ挙動があれば、データシートが間違っているか不良品か自分が誤解していたかそのどれかしかない*10。しかし子供は計算機ではない。予期せぬ挙動をすることはむしろ「仕様」である。にんげんだもの
そのことがまるで理解されず、「プロクルステスの寝台*11が跋扈している日本の学校とは本当に恐ろしい世界だとしか言いようがない。何度でも言うが、これほどまでに「真理省」に近い組織が他にあればお目にかかりたいものだ。遠山啓は泉下で涙に暮れていることであろう。

*1:1984年」において、歴史や記録の改竄などの情報操作を行っている省庁。主人公の勤務先でもある。

*2:ちなみに小学校教師が「躓く」を「つまく」と書いているのは全く問題であろう。書く前に「爪で突く」から「つまづく」なのではないだろうかと考えれば防げる誤記である。追記:これについては誤りではないとの指摘をコメント欄で頂きました。

*3:正確には「猿と共通の祖先から進化した」というべきであろう。

*4:年や性別がばれる発言だが、まあいい。

*5:その先生方とは年賀状のやりとりが実に二十年近く続いている。

*6:私が小学生の時、とある教師が「自己紹介をしましょう。名前と得意なことを言って下さい」と言った。最初に指名された子が「○○です、体育が得意です」と言った。そして次に指名された私が無邪気に「Sokalianです、算数が得意です」と言ったところ、教師の目が吊り上がり、私は頭ごなしに怒られた。その時の教師の言い分は「運動ができることを自慢してもよいが、勉強ができることを自慢してはいかん」というものだった。これに象徴される出来事の多くは私の人格形成のうちの少なからぬ部分を占めている。

*7:「豆腐の角に頭ぶつけて死ね」と一度は打ち込んだことを敢えて告白しておく。

*8:無論、夢や情熱を語る場というのもそれはそれで必要である。しかしそれは酒を飲みながら話すべきものと大抵相場が決まっている。学会には必ず懇親会があり、お客さんを呼んで講演を聴けば得てして「夜の部」があるのもこのため、とまあこれは余談なので冗談半分本気半分で聞いていただきたい。

*9:さすがに教科書には載っていないようだ。さもあろう。そんなトンデモな教科書は検定を通るはずがない。いや、ことにするとあるいは、「つくる会」教科書のように、初稿はトンデモまみれだったものを、検定意見に従ってトンデモを削除した結果、最終的に検定をくぐり抜けてしまったということなのだろうか。

*10:大抵は一番最後の選択肢である。

*11:たとえば、プロクルーステース - Wikipedia参照。