「理系人間は頭が数学」という侮蔑

鳩山由紀夫氏が政治家を志す前は応用数学の研究者であったことは比較的知られている。
工学博士である鳩山氏が、法学士や経済学士揃いの日本政界の中で異色な存在であったことは疑いもない事実だ。そのことから、あるいは政治に新しい風を吹き込んでくれるかもしれないと期待した人も多くいたようだが、そのことが必ずしも誤っているとはいえない。

とはいえ、それにもあくまで限度がある。たとえばアルベルト・フジモリ氏と李登輝氏に何がしかの共通点を見出すことはできるかもしれないが、まさかそのことの要因を、両氏が共に農学博士であることに見出す人はいまい。

しかし、こと相手が鳩山氏となると、その良識が途端に働かなくなる人が多いようだ。鳩山氏が学者時代に研究していたモデルの「マルコフ性」という性質*1からの牽強付会で鳩山氏の思想を説明しようとする俗論が広くはびこっているようだ。先日、佐藤優氏の「知の欺瞞」 - 吾輩は馬鹿であるという記事の中で、その典型を批判させていただいたが、今日もまた同じようなものを見て再度呆れかえることとなった。しかも今回の場合、当人は本職の研究者であるのだから、佐藤氏よりも余程罪が重い。

今回取り上げるのは、河合薫氏によるhttp://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100601/214710/という記事だ。記事の趣旨は、

もし鳩山首相が、マルコフではなく、米国の健康社会学者、アーロン・アントノフスキーに傾倒していたら、ここまでひどい結果にはならなかったのではないか、と私はかなり真面目に思っている。
アントノフスキーとは、私が最も敬愛する健康社会学者で、人の生きる力を「Sense of Coherence(首尾一貫感覚)」という概念で説明した人物である。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100601/214710/?P=1

というものである。なお、本記事では、アントノフスキーの学説の内容には触れず、もっぱら鳩山氏の思想とマルコフモデルを結びつける論法のみを題材とする。

ロボット工学者は機械人間なのか

はじめに、単純な誤りを指摘しておく。鳩山氏がマルコフに傾倒していたというのは根拠がなく、おそらくは完全な誤りで、そればかりか鳩山氏はマルコフという人物が何世紀に生きた人物かもまず知らないであろう。河合氏の専門である健康社会学ならいざ知らず、自然科学や工学の世界では、過去の偉大な学者の名を冠した分野を研究していることは、その学者に思想的に傾倒していることを全く意味しない。このことには深入りしないが、そのあたりの事情は奇しくも今日亡くなったロシアの数学者 V.I. アーノルドの名言

アーノルドの原理:概念に人名が冠されていれば、その名は発見者のものではない。
ベリーの原理:アーノルドの原理はそれ自体にも適用される*2
V.I. Arnold, On teaching mathematics

あたりから察してもらいたい*3

しかし、私が問題にしたいのはそんなことではない。河合氏の記事の最後の結びの一段落、これに尽きる。

物事には過去があって、未来がある。過去の情報に影響を受けないなんてことは、人が介する限り、あり得ない。マルコフモデルは絶対に、人には当てはまらない。だって何が大切かは過去があって初めて決められる。同じことを繰り返さないでほしい。ただただ、そう願うだけである。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100601/214710/?P=4

これはあまりにもひどい。いくら鳩山氏に批判的だとしても、言ってよいことと悪いことがある。研究者の思考回路を研究対象と同一視するというこのナイーブな発想、それはまるで「ロボット工学者は感情を介さない、血も涙もない人間である」と言っているに等しいことがわからないのだろうか*4。揶揄とさえも言えない、単なる侮辱である。

学問とはものごとを「敢えて」単純化するということ

まさか博士号を持った研究者である河合氏がこんなことを理解していないとは信じたくないのだが、そもそも学問とは、複雑な物事をより単純かつ普遍的なモデルに落とし込むことである。

そして、その単純化・普遍化の度合いは「理系」*5の学問においてより甚だしい。自然科学は、現象をより少数の原理、ことに簡潔な数式で表せることを非常に尊ぶ。逆に言えば、数式に代表される狭義の論理的言語に落とし込めないようなものはもとより「理系」の学問の対象ではない。

「理系」の研究者はその「単純化」をわかった上でやっているのである。決して、「世の中の物事は全て単純な数学的モデルに落ちる」と信じているからやっているわけではない。いわゆる「理系クン」が女性を目の前にしてぎこちない態度をとっているとすれば、それは「女心*6を数式に当てはめようとしているから」ではないことだけは確かだ、と言えばこのことは当然のことと理解していただけるであろう*7

かくのごとく、鳩山氏の思考回路がマルコフ的であるなどと判断する根拠はどこにもない。そんなことは少し落ち着いて考えれば誰にでもわかるはずなのだが、どうも「理系」の人間はことある事にこのような(半ば意図せぬ)侮辱を受けることが多いようで、本当に辟易するばかりである。

語り得ないことには沈黙しなければならない

河合氏は以下のように書いている。

いざこういう結末を迎えてみると、“鳩山博士”の博士論文には、現行案にほぼ戻ってしまった今回の結果をにおわせるものがあった。
鳩山博士の論文は、"Markov maintenance models with repair"(1976年にスタンドード大学で受理)というもので、Yukio Hatoyamaの英文原著論文である。
その内容は、ロシア人の数学者、アンドレイ・マルコフにちなんで「マルコフモデル」と名づけられた確率モデルを使って、機械の保守修繕をどれくらいの時点でやればいいのかを論じたものらしい(数式だらけで私には全く分からなかったけれど)。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100601/214710/?P=1

笑いを取ろうとしているのでなければこのようなことを書くものではない。「全く分からなかった」ものを根拠にして「今回の結果をにおわせるものがあった」などと結論を出すなど、博士号を持った人が書けば鼎の軽重を問われるだけだ。別に「数式だらけ」のものを理解できないことが罪であるなどと誰も言いはしないのだから、自分が理解していないことについては公の場では言及を控える、そのことこそが博士たるものの持つべき慎みというものではないか。猛省をしていただきたい*8

追記:ブックマークコメントにお返事

なお、追記に伴い誤植および誤解を招く可能性のある表現を何箇所か訂正した*9

b:id:kumakuma1967 保健学博士は工学博士と同じくらい理系博士だろ 2010/06/04

単純な分類で行くとそうなりますが、河合氏の専門は健康社会学であり、従って同氏は、保険学の基礎的な知識こそ備えているにせよ、「文系」分野の社会学の方法論を主に研究活動に用いていると判断できます。

b:id:mobanama 本筋じゃない部分, 科学 "逆に言えば、数式に落とし込めないようなものはもとより「理系」の学問の対象ではない"暴言の域に近いと思う。物理帝国主義的。 2010/06/04

ご指摘ありがとうございます。これはおっしゃるとおり、わかりやすく書こうとした余りに誤解を招く表現となっていました。「数式に代表される狭義の論理的言語」などと改めておきました。

b:id:Cunliffe 相変わらずあたまがわるいね。 2010/06/04

相変わらず、何の根拠も挙げずに人を中傷することしかなさらないようで、非常に頭がおよろしいですね。

b:id:sor_a 鳩山さんは科学者だと思ってたが数学者だったのか.(後略) 2010/06/04

鳩山氏の専門分野はオペレーションズ・リサーチと呼ばれる分野ですが、この言葉自体になじみがない人も多いと思われるので、より広い分類の「応用数学」と書いておきました。ただし、この分野は大学の科目名では「数理工学」とされることも多いので、理学というよりは圧倒的に工学に近い分野です。もっとも、日本では応用物理学科や応用数学科はだいたい工学部であるのに対し、米国などではこうした分野は数学科で扱われることも多いので、鳩山氏を「数学者」(日本でこのように呼んだ場合、暗黙に「理学者」と扱われ、数理物理学以外の応用数学は含まれないことが多いです)と理解するのが正しいかどうかはかなり微妙な問題です。いずれにせよ、単なる言葉の定義の問題なので「理学と工学の境界分野」であると考えていただければよいかと思います。

b:id:kazutanaka science 名言のリンク先が面白かった。ポントリャーギンも似たようなことを書いてたな、と思ったら弟子なのか。 2010/06/04

師匠筋にはコルモゴロフもいるようですね。いずれにせよ、応用を意識した解析学の教科書の名著を書くという意味で私はこの学派を尊敬しています。記事V.I. Arnold, On teaching mathematicsには、私も目を開かされた経験があり、応用数学を専門にする者の端くれとして私もアーノルディアンを自称しています。

b:id:aionarap 全く同感。自分の研究分野で一般的に使われている公理を全く関係ない分野に不細工なアナロジーを展開して敷衍するなんて人はまずいないだろう 2010/06/04

ところが、そんな当たり前のことを理解してくれない人が世の中に多いのだから困るのですよ。卑近な例では、このブログの本来のテーマである「トリアージ騒動」では、この「はてな」で最も知性が高いとされている人たちがそんなことも理解できないことが露わになったものと私は認識しています。

追々記

「アーノルドの原理」は記憶に従って書いてしまっていたのですが、当該エッセイV.I. Arnold, On teaching mathematicsを再度読み返してみたところ、本文中の引用には問題があることに気づきました。私は「アーノルドの原理」は、「自分の研究成果を宣伝するために過去の偉大な学者の名前を自分の理論につける」という現象を指しているのかと思っていましたが、実際のところは「他人の成果の一般化をしただけの人が発見者を僭称する」ということを批判するためにこういう話が出てきたようです。弁解すると、私の実感では前者に比べて後者の例は非常に少ないように思うのですが、いずれにせよ誤りは誤りなのでここに訂正させていただきます。

*1:直観的に言うと、「最近起こったことだけをもとに次のことが予測できる」という性質。

*2:後記:この引用には問題がありました。「追々記」をご参照下さい。

*3:上記日本文は、リンク先の英語版からの拙訳。

*4:ところで、この類推で行くと、化学者であるマーガレット・サッチャー氏やアンゲラ・メルケル氏はいったいどういう人格であるということになるのだろうか。

*5:曖昧な言葉だが、工学を含む広義の自然科学を示すよい用語が見あたらないので敢えてこの言葉を用いる。

*6:こういう言葉を見ると脊髄反射的にジェンダーが云々と揚げ足をとりたくなる、文脈の読めない「金槌を持つとすべての物が釘に見える」ような種類の人は「女心」を「人の心」と読み替えていただきたい。

*7:と思ったが、ここまで書いて自信がなくなってきた。血液型占いと同様に、この連載のような「理系本質主義」を本気で信じている人も、案外多いのかもしれない。

*8:ちなみに、この項の題に「語り得ないことには沈黙しなければならない」を引用するのが誤っていると気づいた方は正解である。まさにこの引用こそが、このヴィトゲンシュタインの一節の誤った引用をもって戒められるべき表現の典型例なのである。

*9:ネットの世界ではどういうわけか、ブログ記事をアップロード後に書き換えると「改竄」と呼ばれる傾向があるようだが、私にはその理由がまったく理解できないし、殊に内容に影響しない表現の訂正を取消線などで残しておく必要などまるで感じない。よって、このような訂正については今後とも一々断らない。