帰ナチ法の浅ましさとゴドウィンの法則

どうやら、何でもかんでもナチスに関連づける下らない論法は「トリアージ論争」の専売特許ではなかったらしい。

「ネットでの議論が長引けば長引くほど、ヒトラーやナチを引き合いに出すことが多くなる」
ゴドウィンの法則 - Wikipedia

今度は「トリアージ論争」でいちゃもんをつけたのとは反対側とおぼしき人が下らない帰ナチ法*1を振りかざしている。最初は放置しておこうかとも思ったのだが、ブックマーク数が余りにも増えている割にまともな批判がなさすぎるので簡単に書くことにする。

ヒトラー菜食主義者。よって菜食主義者はナチ」

問題の記事の論法はこうだ。

「大企業は儲けすぎだからもっと税金を取れ」「老人への保障をもっと手厚くしろ」「大きな店は潰して、小さな店だけにしろ」「不動産を貸したり転売して儲けることは許さない」「高金利の金貸しは許さない」といった話だから、いまの日本でもよく言われているような話である。
これがナチスの綱領であることを隠して、「このような政党があったら支持するか?」というアンケートをもし日本でやったら、支持する人はかなりいるのではないか。
ナチスの「25カ条綱領」は日本人必読では - モジログ

だから何だというのだろうか。同じことをドイツ社会民主党SPD)支持者の前で言えるものなら言ってもらいたいものだ。SPDは曲がりなりにも最後までナチス一党支配に抵抗した党だが、政策傾向としてはここであげつらわれているものと同様だ。
さすがに、この論法が乱暴であることには気づいたらしく、ブログ主のmojix氏もこのように付け加える。

もちろん、ナチスの政策だから全部間違っているということにはならないし、ナチスの政策にも正しいものはあるかもしれない。重要なのは、ナチスの政策が正しいか間違っているかというよりも、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方そのものが危険だ、ということなのだ。
ナチスの「25カ条綱領」は日本人必読では - モジログ

これは驚いた。ならば「殺人は許さない」という政策を強要することも危険なのだろうか。そのような「考え方そのもの」が危険だとすれば、当然そういうことになる。

しかし、話はそこにとどまらない。早い話、mojix氏が引用しなかった条文を同じくWikipedia日本語版から引用しよう。

  • 我々は、我が民族を扶養し、過剰人口を移住させるための土地(植民地)を要求する。
  • 民族同胞のみが国民たりうる。宗派にかかわらずドイツの血を引く者のみが民族同胞たりうる。ゆえにユダヤ人は民族同胞たりえない。

25カ条綱領 - Wikipedia(番号は引用者により削除)

こちらこそがナチスの本質であることは明らかである*2街宣右翼であろうとこのような条文には反対するであろうし、日本で最もナチスに近いであろう在特会員であろうとも前者の条文には到底賛成できないに違いない。つまり、mojix氏が引用した条文は、敢えて言えば「どうでもいいもの」ばかりなのだ。

要するにこの記事、ナチスを引き合いに出して自分が否定したいものの印象を貶め、その心理的隙を突いて暴論を主張しようというだけの浅ましい狙いのものなのである。詐欺まがいの論法といってもいい。そんな単純な仕掛けをこれだけの人のほとんどが見抜けないのだから呆れかえる。
「ネットは真実」と言っている自称情報強者は論外としても、デジタル化万歳の人たちは既存メディアの存在自体に否定的のようだが、このような状況では少なくとも、素人が書きつづったブログなどの「数」をいくつ集めても、既存メディア程度の「質」さえも凌駕できないことは余りにも明白だろう。

「25カ条綱領」の無意味さ

しかしそもそも、ナチスの政策を語る際に「25カ条綱領」を持ち出すこと自体が空しいのである。同じくWikipedia日本語版からmojix氏が引用しなかった部分を引用しよう。

1921年7月29日にヒトラーが第一議長になり独裁権力を握ると、党綱領の意義は薄れていった。ミュンヘン一揆ヒトラーが収監された後、グレゴール・シュトラッサーらナチス左派は社会主義色を強める綱領改定案を出した。しかし既成勢力との関係は党勢の拡大に重要と考えたヒトラーは、バンベルクで開催されたバンベルク会議において「指導者原理」を強調し、反対派を沈黙させた。この会議で綱領は不変のものとされたが、ヒトラーは「指導者原理」により綱領を有名無実化していった
25カ条綱領 - Wikipedia(強調部引用者)

「指導者原理」という言葉に聞き覚えのない方もいるかも知れないのでこちらもWikipedia日本語版から引用しておこう。

指導者原理は、ドイツ第三帝国の統治構造における政治的権威の重要な基礎である。この原理の意味の最も簡潔な理解は「総統の言葉は全ての書かれた法に優先する」であり、政府の政治方針、決定などは最後までこの原理に従った。(略)
「指導者原理」のイデオロギーは、それぞれの組織を指導者(リーダー)の階層と見なして、そこでは全ての指導者が彼自身の領域においては絶対的な社会的責任を持ち、彼の配下の人々には彼のみへの絶対的な服従と対応を要求する。最上位の指導者(総統であるアドルフ・ヒトラー)は、誰にも服従しない。
指導者原理 - Wikipedia(強調部引用者)

一言でいえば、「ヒトラーはもっと平等である」ということである*3。こんなものが通ってしまえば、綱領がどうであろうと意味がないことは言うまでもない。
なお、もとの「25カ条綱領」からさらに「社会主義色を強める綱領改定案」を出したグレゴール・シュトラッサーのナチス・ドイツでの地位を知っておくのも無益のことではなかろう。
以下が、綱領が有名無実化された「バンベルク会議」の後の顛末である。

しかし1926年のバンベルク会議でヒトラーに屈服、以後は宣伝全国指導者を務めることで彼の路線に従う姿勢を取った。後にヒトラーが宣伝全国指導者を兼務した後は組織全国指導者に就任、1930年にオットーが脱党した後もその地位を保持したが、1932年にクルト・フォン・シュライヒャー内閣への副首相としての入閣をめぐりヒトラーヘルマン・ゲーリングと対立、党の全役職を退いた。
1933年1月30日にヒトラー内閣が成立すると、オットーはオーストリア、またカナダへと亡命したが、グレゴールはドイツ国内に留まった。そして1934年6月30日の長いナイフの夜事件の際にゲシュタポに捕らえられ、裁判を経ることなく射殺された。
グレゴール・シュトラッサー - Wikipedia

本来mojix氏が貶めたかったであろう「25カ条綱領」の社会主義的傾向がどの程度ナチスの本質であったかが窺い知れるであろう。

補足:「国家社会主義」は「ナチ」に非ず

今回書きたいことは以上であるが、はてなブックマーク - ナチスの「25カ条綱領」は日本人必読では - モジログを見るととんでもない勘違いをしている人が多いようなので参考までに記しておく。

b:id:tmsbb 政治  現在の左派と国家社会主義。 民主党だけでなく、自民党内にも極端なパターナリズムを掲げる奴がいるからね。 「こんにゃくゼリー」問題とか。。 2010/10/11CommentsAdd Star

b:id:deadcatbounce *あとで読む, 左翼 民主党国家社会主義 / ブコメではてサがチョー必死 2010/10/11

この両氏と、スターをつけているid:paravolaid:kowyoshiid:hayaton117の三氏に念のため言っておきたいのだが、「国家社会主義」は「ナチ」の同義語ではない*4

確かに自民党などから、民主党の政策は「国家社会主義」であるという批判がなされている。

自民党は15日午前、政権構想会議(議長・谷垣禎一総裁)を党本部で開き、新たな党の基本理念に関する勧告を取りまとめた。民主党を「国家社会主義的政党」と批判、「政府の国民生活への過剰な介入を認めない」として、明示はしなかったものの「小さな政府」路線を選択する姿勢を強調した。
http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009121501000286.html

しかし言うまでもないが、自民党民主党を「ナチス」だと批判したわけではない*5

確かにナチスの正式名称Nazionalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei*6は日本語で「国家社会主義ドイツ労働者党」と訳されている。しかし、通常経済の文脈でいわれる「国家社会主義」に対応するドイツ語はStaatssozialismus*7であり、ナチスとは関係がないのだ。

Traduttore è traditore*8とはよく言ったもので、不用意な訳語が定着してしまったため、このような誤解をする人が現れたのであろう。このようなことがあるためか、最近ではナチスの党名は「民族社会主義ドイツ労働者党」「国民社会主義ドイツ労働者党」など別の訳語が用いられるようになっている。

追記

b:id:logic_master いかがなものか なんでまだいるの?さっさと消えなよ公約通りに。 2010/10/17
はてなブックマーク - 帰ナチ法の浅ましさとゴドウィンの法則 - 吾輩は馬鹿である

誰も「公約」などした覚えはない。閉鎖する「予定」と書いたことはあるが、そんなものは私の心づもりにすぎず、それを変更するのは当然私の勝手だ。これをきちんと読むこと。

言いがかりを付ける人があまりにも多いので補記。これは私の内心の心づもりに過ぎず、私の行動を制約するものではないし、また誰に何の約束もしたつもりではない。
吾輩は馬鹿である

そもそも、あなた方に中傷や罵言以外のものをもらったことがないのに、どうして私があなた方のために何かをしてやらなければならないのか。厚かましいにもほどがある。
ちなみに、私の存在が目の上のたんこぶだと思ってこのような、あなた方風に言えば「国語の成績が悪い」ことを言ってもらえているのなら光栄だが、私はあなた方に腹を立てている立場なので、あなた達が非を認めない限りは、閉鎖しろ閉鎖しろと言われれば言われるほどますます閉鎖する気がなくなるのは少し考えればわかることだ。もう少し頭を使ってはどうだろうか。

*1:Reductio ad Hitlerum - Wikipedia。また、帰謬法ならぬ帰ナチ法はいいかげんにやめてはどうか - 吾輩は馬鹿であるをも参照。

*2:少なくとも、こうした方向性がなければナチスがここまで語られることはなかったはずだ。

*3:ジョージ・オーウェル動物農場」参照。

*4:「はてサ」を間接的に擁護する形になるのが極めて不本意なのだが…。

*5:はてなブックマーク - 自民、「小さな政府」路線を選択 民主は「国家社会主義政党」 - 47NEWS(よんななニュース)を見る限り、id:oga_jpid:R2-3PO氏も勘違いしているようなので、誤解を解くためこの際idコールさせて頂く。

*6:ドイツ語をご存じない人のために英語に訳せばNational Socialistic German Workers' Partyである。語の対応は明らかと思う。

*7:これも英語に訳せばstate socialismである。

*8:イタリア語:「翻訳家は裏切り者」。トラドゥットーレ・エ・トラディトーレという掛詞。