再返信

前記事前記事ブックマークコメントへのお返事 - 吾輩は馬鹿であるに付いたブックマークコメントへお返事する。

b:id:SIVAPROD どや顔, お話になりませんな
呼び出し食らったので。わざわざ”科学者に”って書いてる意味が全然わかってないのですね。 2011/10/07
b:id:haruhiwai18
"「歴史修正主義をめぐるごたごた」という表現が反撥を買うとは私には到底思えない" →主観,乙w/"低線量被曝の影響をめぐる紛糾(ごたごた)"って表現を、専門家としてあの先生が受け入れるかどうかが問題なんですがw 2011/10/08

「科学者に」と書いたところで全く変わりない。もとより「紛糾」には「対立する仮説が複数あって決着が付いていない」というような意味合いはないからだ。
それを「主観」とおっしゃるのであれば、よろしい、片瀬氏が「紛糾」という言葉を問題の発言以前にどういう意図で使っているか、同氏twilogから検索してみたところ、本人の発言として見つかったのは以下の一件のみである。

どうしていつも「あやしい情報には気を付けましょう」とか、「システム変更によって過渡的に起きる不都合な出来事への配慮を欠かしてはいけない」等という普通の話をしているのに、それに対して紛糾してしまうのか不思議…。

Twitter. It's what's happening.

この種の話の「紛糾」、特に前者の側には「トンデモ」側の人の反撥が含まれていることは疑うべくもない。また同氏自身、菊池誠氏が「対トンデモ」の話で「紛糾」という言葉を使うことを問題視していない。

どうしてシンプルな掛け算を変な風に考えてしまうのか不思議でした。RT @kikumaco: かけ算の順序を変えちゃいけないなんていう妙な話で紛糾するとは思わなかったよ。変えちゃいけないという意見のどれも、論の体をなしてなかった(反論は受け付けません)

Twitter. It's what's happening.

以上のことから、少なくとも片瀬氏の「紛糾」の用法を見る限り、同氏の意図に問題があったとは言えないだろう。

b:id:D_Amon 学問的にはということを認識できないのは知能か心かその両方かに問題があるのだろうと思う。鸚鵡返し的発言をすれば言い返せてると考えているかのような反応の幼稚さも含めひたすら憐れ。バカはバカでも可哀想なバカ 2011/10/07

過去の例に漏れず「発言単独で見ればもっともらしいが、その発言内容が批判対象に全く当てはまっていず、むしろ自己批判として鋭く機能している」という種のご発言のようだ。今回の事態は「学問的に」などといった水準の話ではなく、あなた達のお仲間の言葉を借りれば「国語の成績」がどうこうという水準の話でしかない。なお、「バカ」と言われたので売り言葉に買い言葉で帰しておくが、あなたなどに「学問的にはということを認識できない」などと説教される筋合いはない。私は日常的に論文を読み書きしている人間だ。

b:id:t_kei ごめん、意味がわからないです。『発言とは(…)のことだろうが』って自分から難癖云々言っといて『ことだろうが』ってどういうこと??あと平日に長々とコメント書いてる余裕はあったみたいですけど… http://p.tl/rGEK 2011/10/07

片言隻句にこだわりたくはないのだが、あなたが書いたのは

b:id:t_kei id:Sokalian さん、http://p.tl/1qk7 での僕の発言が具体的にどう難癖なのか、説明して欲しいな。/応答なし。 2011/10/05

はてなブックマーク - 原発や南京大虐殺が紛糾するのはまごうかたなき「客観的事実」である - 吾輩は馬鹿である

だ。ここで「http://p.tl/1qk7 での僕の発言」というのを具体的に明示するために「発言とは(…)のことだろうが」という書き方をしたまで。確かに「ことだろうが」という表現は最適なものとは言えないかもしれないが、意図はご理解いただきたい。また、あなたのブックマークに返信しなかったのは、コメント欄に「長々」*1と書いた時点で既に深夜になってしまったので後日に回そうと思っただけだ。もとより「何日以内に返信する」などと約束した覚えはないのでその点をとやかく言われる筋合いはない。
なお、今後はこのような内容と関係のない指摘には応答しないのでご了解頂きたい。

*1:別に長いとは思わないが。

前記事ブックマークコメントへのお返事

多少お待たせしたが、前記事ブックマークコメントにお返事する。なお、話の順序を考慮して順序を入れ替えたことをお断りしておく。

b:id:a-lex666 こういう輩が必ずでると思って進化論云々を付け加えたんだが/あの事例を紛糾と言う用法は私の辞書にはないな 2011/10/05
b:id:haruhiwai18 "あなたが巻き込まれた事態を「紛糾」と呼んで悪い…それはなぜ" →きちんと手続きを踏んで主張してる側と、それを殆どしない側との土俵が違いすぎる"議論"を、事情を知る者なら"紛糾"とは呼ばないだろw http://p.tl/ZWUm 2011/10/05

私の手元の広辞苑第五版(電子版)から引用しよう。

ふん-きゅう【紛糾】…キウ
物事がうまくゆかず、もつれ乱れること。「事態が―する」

どこの誰とも知れぬid:a-lex666氏の辞書よりは広辞苑を私は信頼する。またid:haruhiwai18氏は「デジタル大辞泉」から

ふん‐きゅう〔‐キウ〕【紛糾】
[名](スル)意見や主張などが対立してもつれること。ごたごた。紛乱。「予算委員会が―する」

紛糾(ふんきゅう)の意味 - goo国語辞書

を引用しているが、歴史修正主義とて正当性がないというだけであって「主張」は「主張」である。また「歴史修正主義をめぐるごたごた」という表現が反撥を買うとは私には到底思えない。あなたの「大辞泉」理解はやや牽強付会に過ぎるのではないか。

b:id:t_kei id:Sokalian さん、http://p.tl/1qk7 での僕の発言が具体的にどう難癖なのか、説明して欲しいな。/応答なし。 2011/10/05

あなたの発言とは

@kumikokatase 片瀬久美子 私、原発を推進してきた学者でもないし、捕鯨問題に関わってきた学者でもないし、南京大虐殺の調査に関係してきた学者でもありません。学者と一括りにして、私が無責任と言われましても…。ただ静かに研究室の片隅で実験生物の相手をしながら地道に生命の仕組みの研究をしてきただけですよ。

Twitter. It's what's happening.

につけたブックマークコメントの

b:id:t_kei おやおや…。だったら原発事故についての非専門家の発言も許容しないとね。あぁ、アホらしい。 2011/10/03

はてなブックマーク - 片瀬久美子🍀 on Twitter: "私、原発を推進してきた学者でもないし、捕鯨問題に関わってきた学者でもないし、南京大虐殺の調査に関係してきた学者でもありません。学者と一括りにして、私が無責任と言われましても…。ただ静かに研究室の片隅で実験生物の相手をしながら地道に生命の仕組みの研究をしてきただけですよ。"

のことだろうが、この発言が片瀬氏への反論として成立しているためには、片瀬氏が「非専門家」として南京大虐殺捕鯨問題に言及した、とあなたが理解していると考えるしかない。そして今回捕鯨問題はまったく「紛糾」していないことから、あなたは結局片瀬氏は「南京大虐殺について非専門家として発言した」と主張したことになっている。ところが前記事で述べたように、そんな解釈は「紛糾」という言葉を「論争に決着が付いていない」というような意味で理解しなければ出てこないものだ。これは明らかに曲解であろう、ということである。
なお、返事が1日空いただけで「応答なし」というのはやめていただきたい。平日である*1

b:id:SIVAPROD リテラシー, どや顔, お話になりませんな 科学者に「進化論と創造論は紛糾しますね。」って言ったら「”紛糾”するわけねーだろ、バカ!」って言われると思う。 2011/10/05
b:id:D_Amon 進化論が…と書こうと思ったら先に書かれてしまっていた件。それはさておき、こういう自分はバカですと主張するためのたわけた文を書くのにどんだけ字数を使っているのだろう。当て擦りへの欲望のなせる業だろうか。 2011/10/05

これらについては、同コメント欄から

b:id:flasher_of_thought 進化論は紛糾すると思いますよ。米国では。米国のサイエンス・ライターに「進化論って紛糾しないよね」と言ったら憤慨されるんじゃないですかね? 彼らは正しくそれと戦ってきたわけですし。「紛糾」の定義か? 2011/10/05

を引用して終わりとすればよかろう。敢えて附言するならば、キリスト教原理主義が跋扈していない日本では進化論は「紛糾」していないこと、それからid:SIVAPROD氏の表現は「進化論と創造論」を同等に並列しているようにも取れるもので若干含意が変わっていることに注意したい。
なお、id:D_Amon氏の発言の後段はいつもながら適切な自己批判であり、恐悦至極である。

b:id:tari-G Apeman云々以前に、片瀬氏が学者として幼稚すぎるというのは客観的事実なので。 2011/10/05

では、具体的に「幼稚すぎる」と判断できる点を挙げてみていただきたい。できるものなら。

b:id:Fondriest 「敢えて言おう。理系はカス」と書いたとき念頭にあったひとりからほんとにidコールされてワロタ。 2011/10/06

そんな品性下劣なことを何の恥じらいもなく書けるあなたの足下にも及びませぬな。

b:id:Apeman 「しかしメタブックマークへのコメントで同氏の意図は明らかになる。」 どんな電波受信したんだよw 2011/10/05

「電波受信」とは統合失調症への差別発言であると指摘しておくにとどめる。

b:id:Cunliffe アホ 2011/10/05

バカ。

*1:ちなみに、今日はたまたま仕事が休みだから返事できているが、明日からの連休も不在にする。

Apeman氏「福島の花火や橋桁の危険を否定するものは歴史修正主義者」

本題に入る前に、前提として、

愛知県日進市の市役所周辺で18日夜あった花火大会で、福島県産の花火に対して市民らから「放射能をまき散らす恐れがある」などの声が寄せられたため、打ち上げを中止したことが19日わかった。 (略)

http://www.asahi.com/national/update/0919/NGY201109190002.html

大阪府が発注した同府河内長野市での架橋工事をめぐり、福島県内の建設会社が造った橋桁の搬入に対し、周辺住民が「放射能汚染が不安だ」と反対し、別の業者への発注を要請していることがわかった。府は8月以降、工事を中断し橋桁の放射線量を測定。今後、専門家の意見を踏まえ安全性が確認できれば、工事を再開させたい考えだ。

http://www.asahi.com/national/update/1005/OSK201110050191.html

という愚劣極まりない「紛糾」があったことをご承知いただきたい。

Apeman=apesnotmonkeys氏のコメント欄での暴言

以下本題。id:apesnotmonkeys氏ことid:Apeman氏の日記のコメント欄から。

id:tikani_nemuru_M 2011/10/06 22:20 花火や橋桁に「まったく問題はない」は極めて確度の高い判断であり、南京事件なみかそれ以上に「事実」と断言してよいでしょう。そして、科学者集団に責任の一端があることは僕もはっきりと認めています。何度でもいいますよ、科学者集団に責任の一端はある、と。
そして
僕のいっているのは、科学者集団に責任の一端があるからと言って、福島の生産者の被害が看過されてよいのかということです。科学者集団はここでは事実を言っており、福島の生産者は何のいわれもない差別を受けているんですよ。なぜ科学者集団の責任を福島の生産者が引き受けねばならんのですか?

id:apesnotmonkeys 2011/10/06 22:33
(略)
tikani_nemuru_Mさん

南京事件なみかそれ以上に「事実」と断言してよいでしょう。

私はこれを歴史修正主義への加担と見なします。これが撤回されない限り、あなたとのやり取りはこれで終わりです。

「御用学者Wiki」的なものを生む背景について - apesnotmonkeysの日記

もはや何も説明は不要である。いったいどのようにすれば花火や橋桁に問題が生じうるというのか、説明できるものならしてもらいたいものだ。合理的な説明は絶対不可能である。安全であることに毫も疑う余地はない。それを「歴史修正主義」並の確かさしかないとすることは、まともな科学的思考を「歴史修正主義」並だと貶めていることとなる。完全なトンデモ発言、この一言で終了である。

なお、これまでの発言からして、id:apesnotmonkeysことid:Apeman氏の科学理解は全くの素人レベルであることは明らかだ。そのことは、歴史学の素人が歴史修正主義のどこが誤りかを具体的に指摘できなくても責められることではないのと同様、別に問題とは言えないが、ただしこんな人が同じコメント欄で「私自身も決して強くコミットしているとは言えませんが、疑似科学からみの話題を何度かとりあげてきました」などと言及しているのは、子どもが刃物を振り回しているのを見るようで背筋が寒くなる。

その他、コメント欄でのid:apesnotmonkeys氏や同氏の同調者の発言は、軸を入れ替えればそっくりそのまま歴史修正主義者が「歴史学(者)は信用できない」と主張する論理になることを指摘しておけば十分であろう。

なお、同一コメント欄より以下はおまけ。

id:fnorder 2011/10/06 10:22 (略)ああでも、Sokalianにエサをやってしまったのが一番ムカつくな。

「御用学者Wiki」的なものを生む背景について - apesnotmonkeysの日記

「Sokalianのくせになまいきだ」ということだろうか。そこまで高く評価していただけて大変光栄である。
ちなみに私とてあなたやid:tikani_nemuru_M氏の過去の誹謗中傷を忘れてはいないし、嫌悪し軽蔑さえしているが、主張の理非をそのために曲げるつもりはないのであしからず。あなたとは違うんです*1

*1:と書いて、元ネタを覚えている人がどれだけいるのか少し不安になった。あの人は何人前の総理だっただろうか?

原発や南京大虐殺が紛糾するのはまごうかたなき「客観的事実」である

原発放射線被曝をめぐってはあまりにも低レベルのトンデモ発言や科学者、ことに物理学者への筋違いな八つ当たり*1や山下俊一・福島県医大副学長へのガリレオ裁判を彷彿とさせる個人攻撃といった「反原発無罪」とも言うべき風潮を見るにつけ、本当にうんざりさせられていた*2。敗戦後とはいえ、ナチスなどというトンデモ集団がドイツという大国を掌握し得たことには長年理解できない思いがあったのだが、残念ながらそういうことがあり得ると体で理解できた思いである。とはいうものの、大抵のトンデモ言説には私よりも余程詳しい方々が的確な批判をその都度加えているので、出る幕ではないと静観を決め込んでいた。

だが、最近「はてな」界隈で起こった下らない喧嘩に関しては、馬鹿馬鹿しすぎるためか誰も口出しする気がないようだ。とはいえ、善意の人が誹謗されて終わるのを見過ごすには忍びないので、一言口出ししておくことにする。

事の発端

事の発端は一方の当事者であるid:Apeman氏に自ら語って頂くこととする。

しかし看過しがたいのは、この「「御用学者Wiki」についてのやりとり」の当事者の1人でもある片瀬久美子氏の次のようなツイートである。

  • ちょっとでも触れると紛糾してしまう3大テーマ:原発、クジラ問題、南京大虐殺

(https://twitter.com/#!/kumikokatase/status/119645296681693184)

微修正 ・ちょっとでも触れると紛糾してしまう3大テーマ [日本版]:原発、クジラ問題、南京大虐殺
(https://twitter.com/#!/kumikokatase/status/119647218243350528)

ここで挙げられている3つの「テーマ」のすべてにおいて、日本政府が論争の一方の側にコミットしている――コミットの度合いや仕方は問題により、また時期により違っているにしても――ことは、これらの問題について最低限の知識を持っている人間にとってはいまさら説明する必要もないことであろう。この3つの「テーマ」の共通点はそれだけではない。「ちょっとでも触れると紛糾してしまう」に類する揶揄まじりの評価がこれらの問題にコミットしない理由として頻繁に利用されてきたこと。同時に、日本社会における研究者集団がその社会的責任をきちんと果たしていれば少なくとも現在のようなかたちでの「紛糾」などは生じなかったはずであること、がそれである。想定可能であったはずの事故の想定を封印し、科学的な意義の希薄な調査捕鯨を放置し、否定しようがない大虐殺の存在を否定する大学人が存在することを許してきた責任は誰よりも日本の研究者集団が負うべきものである。公権力と研究者との関係が問われている文脈において、こうした責任を無視するかのような発言は看過することができない。

「御用学者Wiki」的なものを生む背景について - apesnotmonkeysの日記

ここまでであれば、賛否は別として一つの意見と片付けることもできなくはない*3。しかし、コメント欄に目を移すと途端に雲行きが怪しくなる。

apesnotmonkeys 2011/10/03 15:35

b:id:fnorder 論争, 社会, 科学, 原発 「紛糾」は客観的事実でしょう。それに、片瀬さんは逃げていない。放射線関係で発言真っ最中。 2011/10/03

http://b.hatena.ne.jp/fnorder/20111003#bookmark-61506786

存在論的には「紛糾」は「客観的事実」なんかじゃありませんよ。その「紛糾」なるものを生み出し支えている要因の一つが、まさに「ちょっと触れると紛糾」云々と語る研究者たちの存在なんですから。

「御用学者Wiki」的なものを生む背景について - apesnotmonkeysの日記

何を言っているのかまったく意味がわからない。しかしメタブックマークへのコメントで同氏の意図は明らかになる。

b:id:Apeman 「「紛糾」は客観的事実」! 2011/10/03
b:id:a-lex666 たとえば南京大虐殺の「紛糾」が客観的事実に見えるなら、虐殺否定派は大成功してるといえるでしょうねぇ(溜息/進化論も「紛糾してるのは客観的事実」というのかな? 2011/10/03

はてなブックマーク - はてなブックマーク - 「御用学者Wiki」的なものを生む背景について - apesnotmonkeysの日記

言わずと知れたことだが、曲解も甚だしいと言わねばなるまい。

あなた自身「紛糾」と向き合ってきたのではないのか

これを見る限りid:Apeman氏は、片瀬久美子(@kumikokatase)氏が「紛糾」と言った意味を「議論の余地があり異論百出」といった意味で捉えているとしか思えない。そうでなければこれらの発言の意味がまるで理解できないからだ。

勿論、これが下司の勘繰りであることは言うまでもない。ネット上で「原発、クジラ問題、南京大虐殺」の問題を出せば事実としてネット右翼ネット左翼に絡まれて低レベルなトンデモ罵倒をぶつけられる、というのは否定しようのない事実だ*4。そのことはあなた自身身を以て経験してきたはずである。あなたが巻き込まれた事態を「紛糾」と呼んで悪いとするなら一体それはなぜなのだ。単なるあなたの言葉の好み以上の理由がなにかあるのか。

その限りの意味においてこれは歴史修正主義に宥和的な態度だとも、はたまた修正主義者と闘ってきた人たちへの揶揄だともいえない。実際、そして片瀬氏は原発問題で自らその火中の栗を拾っている。歴史修正主義という別の「トンデモ」と闘う人たちに共感を間接的に示していると読むのが普通だろう。


それをどうしてid:Apeman氏や片瀬氏のtwitter発言へのブックマークコメント(その1その2その3)で同氏を批判しているid:tari-G, id:Cunliffe, id:logic_master, id:sivad, id:tei_wa1421, id:felis_azuri, id:Fondriest, id:dj19, id:t_kei, id:zu2, id:toshiyam, id:BigHopeClasicらの各氏らは悪い方に、悪い方に解釈するのだろうか。あなたたちは片瀬氏に何か恨みでもあるのだろうか。

原発それ自体や、それを巡る科学者の言説を批判すること自体は自由だ。だが、訳のわからないことに難癖を付けて相手を貶めるのはただのヤクザの因縁と何も変わらない。

*1:原子力工学と物理学は、文学と言語学が違うのと同様、全くの別物である。基礎知識を共有している分、単なる素人よりはずっと優位に立っているのは確かだが、専門家であるとはいえない。

*2:なお、この記事に関するコメントで、原発の是非を問うというような、本文の内容と関係のない踏み絵を迫るようなものには応答するつもりはないことをあらかじめ断っておく。

*3:個人的には、素人に過ぎない自然科学研究者が一個人の立場を超えてこれらの問題にみだりに口を挟むのは慎むべきと考える。発言に瑕疵があれば話をややこしくするだけだからだ。

*4:これを否定するならそれこそある種の否定論者だ。

「算数と数学は違う」なんて誰が決めたのだ?

もう少し「掛け算の順序」問題を追ってみたい。なお、前後の流れをご存じない方は

をご覧頂きたい。

今回の記事はその補足というかトラックバックへの応答になるが、その前に一つだけ確認しておきたい。題名にも挙げたが、そもそも「算数と数学は違う」などと誰が決めたのか、である。

勿論、大学で講義・研究されているような現代「数学」と「算数」が違うのはその通りだ。前者では定義・定理・証明という流れの中で堅固な論理体系を構築することが大前提だが、後者はそうではない*1。しかし、いくらなんでも「数学」で正しいことが「算数」で正しくないことはないはずだし、数学的正しさよりも「空気読み力」のようなものがそこでは優先される理由などどこにもないはずだ。

そんなことはない、と言いたい方には、一つだけ反問しておきたい。
そんなこと、誰が決めたのだ?
所詮はただのあなたの思いこみであろう。そんなもの、学問の普遍的な正しさの前では何の価値もないことである。

「型にはめる」ことは型が正しいときのみ意味がある

というわけで、まずはかけ算序列話の続き・・・あるいは小学生向けガリレオ裁判 - ka-ka_xyzの日記への応答。

「算数」的な、ある程度型にはめる考え方を全否定してしまうのは危険で、初等教育の段階で一握りの天才以外の大多数が落ちこぼれるだろう。九九の暗記とか、かなや漢字の書き取りとか、型にはめて”そういうモノだ”として教えないとにっちもさっちも行かない部分ってのはある訳で。

かけ算序列話の続き・・・あるいは小学生向けガリレオ裁判 - ka-ka_xyzの日記

その考え自体は正しい。しかし、「型にはめる」ときの「型」は、さしあたり「正しさ」が何らかの意味で確認されているものに限る。「掛け算に順序がある」という考えはそもそも間違っているので「型」としてはふさわしくない。言ってみれば「カタカナ発音」のようなものである。誰もがいきなり外国語で正しい発音ができるとは限らない*2が、だからといって正しい発音とカタカナ発音の違いに気づいている生徒にカタカナ発音を強要するのは全く無益なことだ*3。「できない子」への配慮だとか色々理由をつけたところで無駄である*4

それにしても、このへんをねじ伏せること無く説明できる小学校教師ってどれぐらい居るんだろうか。

かけ算序列話の続き・・・あるいは小学生向けガリレオ裁判 - ka-ka_xyzの日記

無理でしょう。どう言いつくろってみても黒を白と言いくるめる話なのだから、詭弁を使わずにはできません。原理的に。

同志、それはダブルプラスアングッドです!

さて、私のような人間を「真剣に死んで欲しい」とまでおっしゃる真理省のお役人にもの申すことにしよう。

百歩譲って仮にそんなものが必要だとしても、「『かけられる数』を前に書く」という見るからに不格好で美しくない「ルール」、「かけ算とは、同数累加の略記法である」という冴えない「定義」は所詮、「前置修飾という日本語の構造」という、「日本の学校」特有の事情から生まれた便宜上のものに過ぎず、工事現場の足場のように、用が済んだ後は取り払われるためだけのものなのである。

同感です。用が済んだ後は取り払われるものでしょう。用が済んだ後は

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

私の言っている意味を全く理解できていない証拠である。この文脈で「用が済む」とはつまり交換法則を理解することである。理解できている子供の心の中には既に「掛け算」の建物は建っており、足場などはとうに「用が済んで」いるのである。

自慢ではないが、私がそのことを理解できるようになったのは二十歳を過ぎてからである

適切な指導教員に恵まれずご愁傷様です。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

つまりあなたは、「教師の中には知識だけではなく知恵もない人間が多くいる」ということを小学校2年生の子供に理解させるのが「適切な指導教員」だと思っておられるのですね。なるほど。

幼稚だから「幼稚だよ」と切り捨てているのですが。自分の子ども相手でも「幼稚だよ」と切り捨てるでしょう。幼稚なものを助長するよりは幾分マシな教育方針かと思いますし、試験の点数にアイデンティティを感じているようなガキがいたら、掛け算の順序などよりもそちらをどうにかするほうを最優先すべきでしょう。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

誤解してもらっては困るのだが、大事なのは「試験の点数が下がる」ことではない。「正しいことを書いているのに×をつけられる」ことだ。これはまさに、「権力によって正しいことをねじ曲げられる」という深刻な政治的葛藤なのである。子供が容易に処理できる感情ではない。
また、これは私の主観でしかないが、子供のやることを「幼稚だ」と切り捨てるような態度が正しい教育的態度とは私にはとても思えない。あなたのいう「幼稚」さは、クラスで仲間はずれにされただけで自殺する子供の行動を「幼稚」と表現するような意味での「幼稚」さなのだ。世間ずれした大人にとっての些事が子供にとっては大事であることなど当たり前であり、それにきちんと向き合わない大人は指導・監督者としての責任を放棄していると言わざるを得まい。

アカデミズムを問題にした記憶は無いですし、アカデミズムは無関係だと思います。「お皿の上にリンゴがみっつ」にはアカデミズムをかけらも感じないですし。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

こちらも「アカデミズム」などを問題になどしていない。あなたが「コミュニケーション能力」などというから、学問上の「コミュニケーション」について語ったのだ。最近流行の軽薄なカタカナ語を使えば「ロジカル・スピーキング」だ*5。それほどまでに「空気読み能力」を育てたいのであれば子供を自己啓発セミナーに放り込めとでも主張してみるがよかろう。

先に言っておくと数学的な正しさや行列演算には特に興味が無いです。自然数の掛け算を問題にするのに集合論まで話を広げる必要があるなら仕方ないですが。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

ならばこのような目を剥くようなことを平然と主張しないでいただきたい。

私は「5×3は間違いである」と主張していますが。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

本気でそう信じているならばあなたは小学校の算数をやり直す必要がある。教師用指導書はトンデモ本なので、その教師が教祖と崇めまつる遠山啓の本を読むとよいだろう。信者達がそれをねじ曲げてしまったというだけで、遠山の言っていることは少なくとも数学的には正しいのだから。

*1:ただし、公理主義が数学の本質でないことには注意したい。そのあたりの事情についてはそれでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿であるを参照。

*2:そもそも「正しい発音」とは何かという問題もあるのだが、今回は勘弁していただきたい。とりあえず、その言語が話されている社会・文化圏で違和感なく通用する発音、という程度のことで了解願いたい。

*3:インドネシア語スペイン語フィンランド語はカタカナ発音で問題ないとの話も聞くが、ここでは一般論として考えていただきたい。

*4:ついでながら脱線。英語について「カタカナ発音でも問題ない」とする主張を稀に見かけるが、本気なのだろうか?カタカナ発音は音節構造を破壊してしまい、数ある訛りの中でも非常に聴き取りにくいものであることは確かだと思うのだが。私自身、韓国語訛り、中国語訛りの英語よりもカタカナ英語の方を聴き取るのによほど苦労する。なお、英語が「国際語」としてふさわしいかというのはさらに別の問題であるので注意(個人的には大反対である)。

*5:もっとも、「ロジカル」とカタカナで付くもののほとんどは実際に論理的であったためしがないというのもまた真理であろう。

「掛け算は非可換」論者は日本版の「創造説」論者である

先日の記事それでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿であるは怒りにまかせて喧嘩腰に書いたもので、内心を有り体に言えば「屁理屈を捏ねて子供をいじめる半可通ども、この印籠が目に入らぬか」というようなものだったのだが、思いのほかの好反響で驚いている。

だが、さらに憎まれ口を聞くことにしたい。理由であるが、

  • 誰が何と言おうが、指導要領や教科書に書いてあれば全て正しい
  • テストの○や×に四の五の言うな

という態度が、片や科学技術で飯を食うものとして、片や子供の頃教師の「善意」に苦しめられたものとして、絶対に許せないからだ。

スターリン体制をモデルにしたディストピア小説1984年」の中で、作者ジョージ・オーウェルは主人公に

「自由とは、二足す二は四だと言える自由のことだ。これさえ認められれば、あとは全部ついてくる」

という台詞を言わせている。ところがその後、主人公は秘密警察に逮捕されることとなり、取調官は「党が二足す二は五だと言えばそれが正しいのだ」と主人公に言い放つ。そして最後、「二足す二は五」と思えるようになった主人公は、独裁者「偉大なる兄弟」を愛することができるようになっていたのだった。

残念ながら、「自然数の積は可換」ということを頑として認めない教師が支配する小学校の教室は、比喩でも何でもなく「真理省」*1だと言わざるを得ない。数学的真理以上に確かなものは世の中にない。それをねじ曲げるということはあらゆるものをねじ曲げることが許されるということだとなぜわからないのだろうか。

非可換な自然数の掛け算を創造する「高次の存在」

その意味で私が一番許せないのはこの発言だ。

うーん…交換法則もきちんと発見させた上で、あのテストは行われているんだけどなぁ。要するに、式を逆にしても答えは同じなんてことが完全に子ども達にも浸透した状態であっても、5×3は誤答という事なんだよね…。

RYU0508 (@suzusuke) | Twitter

この人が現役の小学校教師でなければただの愚かな思いこみにすぎないが、このような意識で子供達を見ているとしたらこれは犯罪といってもよい。この人のブログ記事から引用する。

式を聞かれたときは、式から読み取れる「考え方」が「指導内容と」合致しているかを聞いているのであって、正しい計算結果が出るように式を立てたかどうかを聞いているのではありません。
いくら数学的や考え方が合っていたとしても、指導したことと違うことを書いているので×をつけざるを得ないのです。

http://kidsnote.com/2010/11/15/35or53/

その考え方は直ちに改めてもらいたい。もし、指導要領が「天皇陛下のために死ね」と説いていたらあなたはそれを教えるのか。

逆にしてもいいとすることの弊害

  • 倍の概念が育ちません
  • 割り算の時にも引っかかりが出ます
  • 計算に小数が入ってきたときにつまずきます
  • 平均、単位量あたりの大きさでつまずきます
http://kidsnote.com/2010/11/15/35or53/

反例がここにいる。私は躓かなかった*2
当たり前のことだが、子供は規格品ではないのである。もしこれが計算機ならば「このソフトウェアはそのソフトウェアの前にインストールしなければならない、そうしないとライブラリが低いバージョンで上書きされてしまい、先にインストールした方が正常に動作しなくなる」ということはあり得るし、そういうノウハウは積極的に共有されて伝達されるべきであろう。しかし子供は計算機ではない。概念を獲得する順番など、まったく一定ではない。
あなたがどれだけ善意でもって、どれだけ過去の経験から学んで教育を計画したとしても、それが全ての子供に完璧に当てはまるなどと考えるのは傲慢極まりない考え方だ。
ちなみに、米国にもあなたと似たような教師がいる。「人間は猿から進化した*3」と教えれば、「人間の尊厳」が身に付かない、と考えて、「地球は四千年前に『高次の知的な存在』が想像した」と教えるのだ。そう、「創造論者」である。
あなたやこのような教師が「善意」でこういうことをやっているという事実自体を否定するつもりはない。しかし、「善意」があれば嘘をついてもよいという集団がどのような結末を辿ることになるかはオウム真理教連合赤軍などが十二分に証明しているだろう。

同じようなことを主張してのける人は他にもいる。

もちろん,「と表すことができる」であって「と表さなければならない」ではないのだから,逆の書き方だっていいじゃないかと言うことは可能です.そう主張する人は,それで統一すればいいんじゃないでしょうか.私は,結論は同じでも見せ方次第で分かりやすくも分かりにくくもなり,分かりやすくする手段の一つが「標準的なものを採用すること」だと,プレゼン指導を通じて強く感じているので,乗算の立式は

乗法は,一つ分の大きさが決まっているときに,その幾つ分かに当たる大きさを求める場合に用いられる。つまり,同じ数を何回も加える加法,すなわち累加の簡潔な表現として乗法による表現が用いられることになる。また,累加としての乗法の意味は,幾つ分といったのを何倍とみて,一つの大きさの何倍かに当たる大きさを求めることであるといえる。
(p.87)

という「標準」に基づいて行うこと,したがって例の画像については5×3=15という式をバツにするのに賛成です.

0×3と3×0は違う - わさっきhb

「プレゼン指導を通じて強く感じている」という程度の主観に基づいて客観的事実をねじ曲げることに「賛成」と臆面もなく言ってのける、こんな人が工学の研究者であるということを私は同業者として深く恥じるものである。

「知識があっても心は子供」

私が許せない言説のもう一つは以下のようなものだ。

そもそも義務教育とは国民の最低レベルを中卒レベルに引き上げるための制度であり、優れた子に英才教育を施す事よりも、おばかな子をまともな子にしてあげる事が優先されます。
最後の子が数学嫌いになる云々と抜かす方もいるようですが、心配しなくとも本当に賢い子は「式は"ぼくはわかっている"という事を先生に分からせるためのものなんだ」というルールをかなり早い段階で見抜きます。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

自慢ではないが、私がそのことを理解できるようになったのは二十歳を過ぎてからである。私は「優れた子」でありつつ、どうしようもなく「おばかな子」であったのだ。このような、「知識の多い子」と「世慣れた子」を同一視する視線に私はどれほど苦しめられたことか!

私は子供時代、早生まれだったこともあってどちらかというと同年代の子供よりも精神的に幼かった。周りの子供が「ドラゴンボール」を観始めている頃にまだ「にこにこぷん」を観ていた*4。単に、「コロコロコミック」や「少年ジャンプ」よりも算数や理科の本が好きだったという以外は、他の子供よりもむしろ余計に無邪気だったと言ってもよい。子供っぽい下らないいたずらを率先して行ったりもしたし、ちょっと悪口を言われたぐらいでムキになって怒ったり、まあ非常に「子供らしい」子供だったと思う。いずれにせよ、典型的な「優等生」ではなかった。

にもかかわらず、公立小学校の教師の大半は私をそのように扱ってくれなかった。最初のうちは「ちょっとからかわれたぐらいでムキになって怒らないの。あなた、頭いいのにそんなことがなんでわからないの」と言われ、そのうち「親に勉強を強要されて人格が歪んだかわいそうな子供」という風に扱いは変わった。実は私はそのどちらでもなく「学力面では早熟でも社会的にはその反対」という個性を持っただけのただの子供に過ぎなかったのだが、それをわかってくれたのは特に評判のよかった数人の先生にすぎなかった*5

どうして「勉強ができる」ことと「空気読み能力」が高いことに必然的な関係があると思いこむのだろう。ある程度の相関はあるのかも知れないが、私のように「人並み以上に勉強はできるが人並み以上に空気が読めない」という子供がいることぐらい、どうして想像できないのだろう。

そして、「子供の立場に立つ」と称する教師の多くは、「勉強ができる子供」を「人間味に欠けるガリ勉」という一面的なステレオタイプで切り捨ててしまうのだ。現実の子供がどれほど違った姿を見せていても、そのことには目もくれない。これが勉強ではなくてスポーツや芸事ならその子の「個性」を褒めることになんのためらいもないのに、どうして「勉強」だと差別されるのだろう*6。それでも、子供を育てるプロなのだろうか。本当に信じがたいことである。

試験の点数がちょっと低くなったから、だからなんだと言うのですか?定期試験のスコアで一喜一憂するなんてのは、ミニスカートの丈を競う女子高生以下でしょう。目的は学びであり、点数は目安に過ぎません。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

あなたが記事中で書いた「巫山戯るなボケ!」という台詞をそのままお返ししよう。「ミニスカートの丈を競う女子高生」は幼稚に見えるかも知れないが、当人にとってはアイデンティティを賭けた闘争かもしれない、その程度の想像力がなぜないのか!まし、掛け算を習う小学校2年生はその「女子高生」の半分程度しか人生経験がないというのに!

コミュニケーション能力を測っています。数式はコミュニケーションの手段です。可換なものを、どのような順序で並べるかという部分で、計算者の意図を表現します。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

何が「コミュニケーション能力」か*7。学術上の「コミュニケーション」とは、学問の対象から離れたものをできるだけ排除して、できる限り客観的視点だけで黒白をつけられるような禁欲的態度を指す*8。そのような場に「空気読み能力」のような不純物を持ち込むものこそ、真っ先に「トンデモ」扱いされて排除されるべきものである。

子供を「プログラミング」するな!

以上、色々述べてきたが、私の言いたいことは結局のところこの人が一言で述べていることに尽きる。

@kikumaco 「知識がある子供はケシカラン」。以前もそういう風潮はありましたが、ごく一部のベテランは「知識があっても心は子供」「知識は好きなだけ得ればよい、心のバランスを取りながら吸収させればいい」という対応ができた。今は、そういう対応のできる大人がいないのかもしれません。

KGN on Twitter: "@kikumaco 「知識がある子供はケシカラン」。以前もそういう風潮はありましたが、ごく一部のベテランは「知識があっても心は子供」「知識は好きなだけ得ればよい、心のバランスを取りながら吸収させればいい」という対応ができた。今は、そういう対応のできる大人がいないのかもしれません。"

本当に昔と現在で差があるのかは保留するが、少なくとも過去一部の教師がそのような対応をできたことは私は実体験として知っているし、現在「そういう対応」ができない教師が少なくとも一名存在することもまた確かなようだ。
いや、一人や二人ならよいのだが、教科書会社のトップ「東京書籍」に言わせると、「5×3≠3×5」らしい。 - 小学校笑いぐさ日記のように、教科書会社の本音がそのようなものなら問題は深刻だ*9
このような教育が罷り通る背景には、「子供はこのようなものだ」という思いこみがあると言って差し支えないだろう。「自分たちは子供のことがわかっている、子供はこのようなものだ、だからこそこのように教えることが正しい」。まるで計算機を扱う態度である。計算機をプログラミングするのであればデータシートを見てその通りに作れば基本的には問題ない。予期せぬ挙動があれば、データシートが間違っているか不良品か自分が誤解していたかそのどれかしかない*10。しかし子供は計算機ではない。予期せぬ挙動をすることはむしろ「仕様」である。にんげんだもの
そのことがまるで理解されず、「プロクルステスの寝台*11が跋扈している日本の学校とは本当に恐ろしい世界だとしか言いようがない。何度でも言うが、これほどまでに「真理省」に近い組織が他にあればお目にかかりたいものだ。遠山啓は泉下で涙に暮れていることであろう。

*1:1984年」において、歴史や記録の改竄などの情報操作を行っている省庁。主人公の勤務先でもある。

*2:ちなみに小学校教師が「躓く」を「つまく」と書いているのは全く問題であろう。書く前に「爪で突く」から「つまづく」なのではないだろうかと考えれば防げる誤記である。追記:これについては誤りではないとの指摘をコメント欄で頂きました。

*3:正確には「猿と共通の祖先から進化した」というべきであろう。

*4:年や性別がばれる発言だが、まあいい。

*5:その先生方とは年賀状のやりとりが実に二十年近く続いている。

*6:私が小学生の時、とある教師が「自己紹介をしましょう。名前と得意なことを言って下さい」と言った。最初に指名された子が「○○です、体育が得意です」と言った。そして次に指名された私が無邪気に「Sokalianです、算数が得意です」と言ったところ、教師の目が吊り上がり、私は頭ごなしに怒られた。その時の教師の言い分は「運動ができることを自慢してもよいが、勉強ができることを自慢してはいかん」というものだった。これに象徴される出来事の多くは私の人格形成のうちの少なからぬ部分を占めている。

*7:「豆腐の角に頭ぶつけて死ね」と一度は打ち込んだことを敢えて告白しておく。

*8:無論、夢や情熱を語る場というのもそれはそれで必要である。しかしそれは酒を飲みながら話すべきものと大抵相場が決まっている。学会には必ず懇親会があり、お客さんを呼んで講演を聴けば得てして「夜の部」があるのもこのため、とまあこれは余談なので冗談半分本気半分で聞いていただきたい。

*9:さすがに教科書には載っていないようだ。さもあろう。そんなトンデモな教科書は検定を通るはずがない。いや、ことにするとあるいは、「つくる会」教科書のように、初稿はトンデモまみれだったものを、検定意見に従ってトンデモを削除した結果、最終的に検定をくぐり抜けてしまったということなのだろうか。

*10:大抵は一番最後の選択肢である。

*11:たとえば、プロクルーステース - Wikipedia参照。

それでも自然数の積は可換である

このブログは、専門外の人間が外から密輸した理屈で、正しいことを正しいと主張することを禁止する風潮を批判するためのものである。そんな私にとってどうしても看過できないのが、今回の「掛け算の順序」騒動だ。詳細は以下を参照。

かけ算の5×3と3×5って違うの? - Togetter

特に、応用数学を専門とし、中高の数学教諭の専修免許も持ち、さらに子供時代に遠山啓の本で数学に親しみ現在も遠山啓の著作集が本棚に並んでいるというような私としては、まるで掛け算の順序を区別することが遠山啓の意にかなっているかのごとく喧伝される*1のは我慢がならない*2

この件については、上記togetterで既に、学識豊かな方々が大抵の論点には触れてくださっているので、私は今まで余り触れられていない論点

  • 「積は一般に非可換」という言説の妥当性
  • 交換法則の証明は必要か
  • 「定義」や「立式のルール」をどの程度遵守すべきか
  • 北海道教育大教授の論考「『かけ算の順序』の数学」批判

について簡単に触れてみることにする。

なお、以下の議論はかなり技術的詳細に立ち入り、長くなる。ある程度の数学の素養がない方は、途中を読み飛ばし、文末の「おわりに」に飛ぶことをお勧めする*3

素人さんは知ったかぶりをしなさんな

ただし、その前に一言述べておく。この件に関して居丈高に「かけ算の順序」否定派を批判しているこのような人たち

b:id:t-murachi はてな, 大人問題 …そりゃ、スパゲティみたいなコード吐くバカが量産されるわけだよな…orz 2010/11/16

はてなブックマーク - はてなブックマーク - 【ゆっくり理解】なぜ3×5で正答で、5×3が誤答なのか | Kidsnote

b:id:ahyask ブコメひでー.くだらない負け惜しみみたいなのに大量の星がついとる 2010/11/17

はてなブックマーク - 【ゆっくり理解】なぜ3×5で正答で、5×3が誤答なのか | Kidsnote

に代表されるような人、また逆ポーランド記法などと言ってわかった気になっているような人は「釈迦に説法」という言葉を辞書で引き、黙ることをお勧めする。
まず、この件で「かけ算の順序」肯定派を批判している人には前野昌宏先生や菊池誠先生をはじめとする本職の物理学者やその卵がたくさんおり、大抵の素人さんや並の数学教師とは比べものにならないほど数学を骨肉としている。少なくとも、例えば「整数は和と積に関して可換環になる」という文を何も見ずに理解できない人は偉そうな真似をよした方がよい。
また、逆ポーランド記法を用いたところで、自然数の積が\mathbf{N}^2 \to \mathbf{N}という形の写像である事実は何も変わっていないのだから何の解決にもなっていない。え?何を言っているかわからない?ならばあなたも上からものを言うのをやめた方がいい。あなたの考える程度のことを、「かけ算の順序」批判派が考えたことがないと思うのはとんでもない思い上がりである。

「積は一般に非可換」という言説について

さて、本題に入る。
この件に関して、「積は一般に非可換なのだ」といって正方行列の積や3次元数ベクトルの外積を挙げる人が多いようだ。そして、「積は可換に決まっている」と主張する人間をナイーブであると批判する。
しかし、この主張は論理的にこそ正しいが、教育的観点からは全く意味がないと言っておきたい。非可換な積という概念の登場は 1843-44 年まで待たねばならず*4、紀元前から存在する自然数の積という概念に比べて歴史が極めて新しいことを知れば、いかに「非可換な積」という概念が「可換な積」に比べて高次の概念であるか理解できるであろう。
そのようなことを言えば、論理上は自然数よりも集合概念の方が根本的なのであるから、自然数を教えるときに0 := \emptyset, 1 := \{0\}, 2 := \{0, 1\}, \ldotsと教えるべきだ、ということになってしまうが、まさかそのようなことは誰も主張しまい。このような定義は論理的には堅固であるが、直観にまるで訴えかけてこないからである*5

交換法則の証明は必要か

もっとも、こういったところで「とはいえ、自然数の積が可換であることは自明ではない、証明できていない事実を使うべきではない」という反論があるだろう。例えばb:id:Youth_Labo氏のこちらである。

数学的に、交換法則を適用していいのは交換法則の証明を前提とします。その証明を履修する以前に無思考に適用するのは受験数学的手法であり、教科としての数学として正しくありません。
http://togetter.com/li/69117

吉田勇気 on Twitter: "数学的に、交換法則を適用していいのは交換法則の証明を前提とします。その証明を履修する以前に無思考に適用するのは受験数学的手法であり、教科としての数学として正しくありません。 http://togetter.com/li/69117"

また、ブックマークにも同様の指摘があった*6

b:id:kunimiya このエントリがここまで批判されることに驚く。乗法に交換則があるといっても、児童が自力でその法則を導き出さない限りあのケースでは使ってはならないのではないだろうか。 2010/11/15

はてなブックマーク - 黄金原本更新, 【最短理解】なぜ5×3ではなく3×5なのか - ワタタツの日記!(2010-11-13)

これについては、「数学的に、極限操作を適用していいのは実数の完備性の証明を前提とします」云々と混ぜっ返し、高校のカリキュラムにその証明がないことを指摘して終わりとしてもよいのだが、実はこの発言自体、この人が自然数の交換法則をどのようにすれば証明できるかをろくに考えていない証拠であることを指摘しておこう。

さしあたり、自然数の和の結合法則と交換法則は既知とし、乗算を同数累加で定義するものとしてみよう。そうすると、ここから積の交換法則を証明するには、おそらく数学的帰納法を用いるしかない。具体的には、nm=mnを既知とし、和の交換法則と結合法則を用いて
\begin{eqnarray}	(n + 1)m  = (n + 1) + \cdots + (n + 1)		 &=& (n + \cdots + n) + (1 + \cdots + 1) \\		 &=& nm + m \\		 &=& mn + m \\		 &=& (m + \cdots + m) + m = m(n + 1)\end{eqnarray}
などとする。これ以上単純な証明は私には思いつかない。

これが小学生に教えるべきことかどうかは明らかである。まして、分数・小数といった概念が入ってくれば自然に有理数・実数の交換法則をも扱うこととなるが、これをやるためには後述するような有理数・実数の構成を同値類だのコーシー列だのといった概念を用いてやらねばならぬこととなる。こうなると並の大学生でもお手上げのはずだ。

ニュートン力学を完全に理解していない人が特殊相対論を批判するのと同じ構図のような気がしてならない。 http://togetter.com/li/69117

吉田勇気 on Twitter: "ニュートン力学を完全に理解していない人が特殊相対論を批判するのと同じ構図のような気がしてならない。 http://togetter.com/li/69117"

私にはむしろ、あなたこそが「相対性理論だかなんだか知らないが慣性の法則が成り立たない理論など誤りに決まっている」と騒ぎ立てている立場にしか見えない。

「定義」や「立式のルール」をどの程度遵守すべきか

以上のことから、「定義・定理・証明」という論理的な順序を厳格に遵守することの無意味さはおおよそ見当がついたかと思われるが、それでもなお、「かけ算を略記法として 3 \times 5 = 3 + 3 + 3 + 3 + 3のように定義した以上は、証明抜きにでも交換法則を教えられるまではこれを使うべきではない」という主張があるかと思う。
しかし、これも目的と手段を取り違えた議論と言わざるをえない。上に見たように、小学校段階では「定義・定理・証明」のような論理の流れではなく、直観的に自然数有理数・実数といった概念に親しむことが数学(算数)教育の目的である。同数累加などのやり方で積を教えるのはそのための一つの手段にすぎない。そして、教えられずとも交換法則に気づいている子供というのは、自然数の積という概念を既に体得しているのだから、理解が不十分だなどと責められるいわれは何もないのだ。

とはいえ、それでも「『かけられる数』を前に書くのが、具体的問題を数学の世界に落とし込む『立式のルール』であるはずだ、そのルールを破ってよい理由はない」という抵抗があるかもしれない。これは確かに反論としては最も有力なものであろう。だが、結局のところこの「ルール」は、「日常言語」を抽象化によってどのように「数学語」に翻訳するかということであり、本来は正解などないのだ。

2年生でかけ算を習う段階では、「なにがいくつ分ある」というかけ算の元々の意味をきちんと理解した上で式が立てられることと、数の計算の上で可換性があることを知っていて計算に使うことは別だと理解しているか確認するのがこのようなテストです。

http://kita.dyndns.org/diary/?date=20101113%23p02

これは、日本の英語教育の因習とそっくりである。つまり、疑問文に対する応答には毎度ご丁寧に "yes, I do", "no, they aren't" などと念押しをしたり、"often" は「しばしば」のように訳語が決まっていたり、どれほど語順を入れ替えても修飾構造を変えてはいけなかったり、どれほど文が冗長になろうとも代名詞を一々「彼」「彼女」「彼ら」「その」「するところの」などと訳すことによって、自分は文法や単語を知っているということを主張せねばならない、さもなくば減点する、という迷信である。そんな「ルール」があると信じられているのは学校の中だけであり、しかもその「ルール」たるや、生徒に英語を「言語」として体感させることを妨げるだけの有害無益なものでしかないのである。
百歩譲って仮にそんなものが必要だとしても、「『かけられる数』を前に書く」という見るからに不格好で美しくない「ルール」、「かけ算とは、同数累加の略記法である」という冴えない「定義」は所詮、「前置修飾という日本語の構造」という、「日本の学校」特有の事情から生まれた便宜上のものに過ぎず、工事現場の足場のように、用が済んだ後は取り払われるためだけのものなのである。実際、交換法則の導入と共にこのような「ルール」は実は「『かけられる数』を後ろに書く」「どちらを先に書いてもよい」と全く等価であることは自明となり、全く無用の長物であったことが明らかにされる。数学に強い大人ほど「かけ算の順序」などという話に反発を覚えるのはこのためである。立派なビルが既に建っているのに、工事の時点で足場が東側にあったのか西側にあったのかなど無意味な議論だ、どちらからでも建てられるのだから、と。このあたりの感覚は、

Ricciテンソルが256個の独立なパラメタを持っていないように。波動関数全体に適当な位相を与えても同じ状態を指しているように、自然数の乗法においてqpとpqは並べて書く際の表記の自由度に過ぎず、両者はまったく同じ対象を指しているとまだ思ってる。それが可換であるということ。

ACTIVE GALACTIC on Twitter: "Ricciテンソルが256個の独立なパラメタを持っていないように。波動関数全体に適当な位相を与えても同じ状態を指しているように、自然数の乗法においてqpとpqは並べて書く際の表記の自由度に過ぎず、両者はまったく同じ対象を指しているとまだ思ってる。それが可換であるということ。"

というのが最も近かろう*7

そしてこれはかけ算の概念を体得した子供も全く同様である。まして先ほどから何度も述べているように、小学校の算数とは論理的に破綻がないように公理系を構築していくような段階では到底あり得ない。どのような「ルール」つまり「公理系」を採用したかを覚えておき、それに矛盾のないように試験に答えよというのがいかに難しいかは、1999年度の東大入試問題

  1. 一般角\thetaに対して\sin\theta, \cos\theta の定義を述べよ.
  2. 1. で述べた定義にもとづき,一般角\alpha, \betaに対して,\sin(\alpha+\beta) = \sin\alpha\cos\beta + \cos\alpha\sin\beta, \cos(\alpha + \beta) = \cos\alpha\cos\beta - \sin\alpha\sin\betaを証明せよ.

に象徴されているだろう*8。私の知る限り、 \sin\theta, \cos\theta幾何学的に定義した上で、公式 \sin(\alpha+\beta) + i\cos(\alpha+\beta) = (\sin\alpha + i\cos\alpha)(\sin\beta + i\cos\beta)の実部と虚部を比較して一丁上がりとしてしまうという注文通りの罠に引っかかった受験生が非常に多かったとのことだ*9。普通に幾何学的に証明しても決して難しくもないのに、わざわざ見え透いた餌に飛びついてしまうのである。かくのごとく、東大受験生でも公理的な態度は通常身に付いていない*10のに、それを小学生に要求できようはずがないのである。

北海道教育大教授の論考について

さて、最後に北海道教育大学の宮下秀昭教授の「『かけ算の順序』の数学」について。正直なところ、私はこれは論じるに値しないと思っていたのだが、

id:kingate http://m-ac.jp/me/instruction/subjects/number/composition/book/doc/composition.pdf の初出後、これを読んで無さそうなツィートが散逸。読み止め。「理論的( 数学的) には順序が問題になり、実用的には順序は問題にならない」。 2010/11/16

はてなブックマーク - かけ算の5×3と3×5って違うの? - Togetter

というような意見があったので、一言だけ*11触れておくことにする。

この文章のくだらなさは、

「理論的( 数学的) には順序が問題になり,実用的には順序は問題にならない。」

数学は,規範を構築する論理ゲームです。
そして,このゲームの結果を回収したところで「実用論」が出てきますが,これは数学の埒外ということになります。

学校数学の教授/ 学習では,規範論を大事にするようにしてください。規範論をきちんとやることが,数学だからです。

数学は,規範学です。
翻って,数学が規範学であることを妨げるように働くものは,学校数学の「数」を数学にさせない勢力になります。

というところに象徴されているだろう。

よろしい、そんなことを言うのであれば、ニュートンライプニッツの時代の微積分は「規範」に裏付けられていない極めて曖昧なものであった。「無限小を無限小で割る」などという、現代の目では曖昧としか言いようのないことを当時はやっていた。これには当然非難もあったし、フーリエ解析、カントルの集合論ディラックデルタ関数など、新しい概念が登場する度に同じようなことは繰り返された。しかし、一般に数学者と呼ばれないディラックはともかくニュートンライプニッツフーリエやカントルの業績を今になってなお「数学」から除外する者は数学に弓を引く者と言って差し支えあるまい。

実際は全く逆なのだ。公理系というものは、既成の概念の範疇におさまらなくなって厳密な議論ができなくなったときにはじめて整備されるのであって、その逆ではない。工業上の標準規格などとは違うのである。なるほど確かにコンパイラを設計していてプログラミング言語の解釈に迷った時は標準規格を参照すべきだ。だが数学の公理系はそういうものではない。感覚的に捉えられてきた対象を論理の世界に取り込むために後付けで設計されるものだ。それは工学の世界で言えば「モデル化」やその精密化に相当する作業である。

無論、0 := \emptyset, 1 := \{0\}, 2 := \{0, 1\}, \ldotsとして自然数の集合\mathbf{N}を定義した上でこれが可換半群であることを証明し、これに負の数の概念を追加するために\mathbf{N}^2をしかるべき同値関係で割って整数の集合\mathbf{Z}と定義してこれが可換環であることを証明し、さらにこれに除算の概念を追加するために\mathbf{Z}^2をしかるべき同値関係で割って有理数の集合\mathbf{Q}と定義してこれが可換体であることを証明し、さらにこれを完備化するために\mathbf{Q}上のコーシー列の全体をしかるべき同値関係で割って実数の集合\mathbf{R}と定義してこれがなおも可換体であることを証明し、最後に\mathbf{R}^2上に演算を入れて複素数の集合\mathbf{C}と定義してこれが代数的閉体になっていることを示すというような作業はそれなりに大事である。しかしながら、この一連の作業は論理的にはともかく、認知的には「数」を構成的に「定義」しているということではない。むしろ逆で、これは我々が感覚的に慣れ親しんでいる自然数・整数・有理数・実数・複素数などが、我々の期待した性質を持っていることを確認する「検査」のようなものだ*12。その証拠に、数学者といえども普段から自然数を「有限集合」だと認知していたり、実数を「有理数の列の同値類」だの「有理数の切断」だのと意識している人などまずいまい。いたらお目にかかりたいものだ。

つまるところこの人は、論理的に堅固な公理系を構築することが数学の本質だと言っているのである。なんと無味乾燥な数学観だろう!本当にこんなことを思っているのなら、この人の頭の中の「数学」は「仏作って魂入れず」の好例でしかない。言ってみれば、コーランアラビア語で全文諳んじているが、自分はアラビア語を全く解さず、にもかかわらず「コーランと呼べるのはアラビア語版のみだ、翻訳で知ろうとするなど何事か」と、岩波文庫版の井筒俊彦訳のコーランを読む人を見下す人が「イスラーム学」の教師を名乗っているようなものだ。

先日亡くなったロシアの大数学者、V.I. アーノルドの言葉を宮下氏に贈ろう。

物理から切り離されたスコラ的数学は教育にも他の諸科学への応用にも向かず、その帰結は数学者へのあまねき憎悪であった。気の毒な生徒達(その一部が大臣になったりする)や、数学を使う側からの。
劣等感に取り憑かれた、物理学に馴染めない教養のない数学者たちによる構造物からは、厳密な奇数の公理論を想起せざるには得られない。無論、そのような理論を作り上げ、生徒達にその構造(たとえば、奇数個の項の和および積が定義できる)の内なる無矛盾性を礼賛させることは可能だ。こうした分派主義者から見れば、偶数は異端の宣告をなされ、のちに「観念上の」対象として(物理学への応用を口実とした)理論に再導入されることとなるのだろう*13

V.I. Arnold, On teaching mathematics

私には、宮下氏の数学観がこれよりも豊かなものとは思えない。

そもそも、数学を少し本格的に勉強したことがある人ならば誰でもわかるはずだが、

  • 重要な概念の定義には通常、同値なものが複数存在する
  • 定義を暗記することと、概念を体得する間には大きな落差がある

ということがある。つまり、概念を体得する過程にある人においては、一つの定義とその他の定義が違うことを見ることは決して容易ではないかもしれないが、概念を体得してしまった人にとっては同値な定義どれを取っても同様に明快であり、理屈以前に感覚的に体に染みついてしまっているものなのである。たとえば、指数関数を e = \lim_{n \to \infty} \left(1 + \frac{1}{n}\right)^nとした上で\exp x := e^xと定義しようと、無限級数を用いて\exp x := \sum_{n = 0}^\infty \frac{1}{n!}x^nとしようと、はたまた「常微分方程式の初期値問題\frac{dx}{dt} = x, x(0) = 1の解」としようと、どれも間違いというものではない。重要なのは、これらが全て同値であり、一つの定義からお互いを導き出すことができるということだ。そして「指数関数」の本質は、こうした定義(定理)全ての上に成り立つものであって、決して定義一つを論理的に厳密に理解していることなどではないのだ。

そのことを、宮下氏のみならず

何が定義で何が定理なのかを曖昧にしたままでは、かけ算という人類の獲得した知性のアイディアをきちんと味わえません。

http://kita.dyndns.org/diary/?date=20101113%23p02

この人も勘違いしていると言わざるを得ない。上に述べたように、「かけ算という人類の獲得した知性」は、公理系が整備されるより以前からあったからだ。数の体系の代数系としての定式化は、壮大な大伽藍に耐震検査をしてその頑健性を確認したといったそれだけのことにすぎない。確かに現代の「建築家」は皆「耐震設計」の訓練を受けているが、近代的な「耐震設計」の方法論ができあがる前に立てられた「建造物」が全て地震に対して脆弱ではない、それだけのことである。

最後に、宮下氏の論考の結論についても触れておこう。

イデオロギーは,きちんとした勉強に向かわない/ 向かえない者に,「それでいいんだ」と慰撫します。「われわれが正しい考え方を示すから,これの外に出る必要はない」と教えます。
「正しい考え方」は,日常言語におさまるようになっています。実際,日常言語におさまっていることは,イデオロギーの要諦です。
遠山啓・数教協の説く「数学」が今日学校数学を席巻するに至ったのには,ひとの受け入れやすいものであったということが,理由としてひじょうに大きい。そして,受け容れやすいということには,日常言語におさまっているという要素が大きい。そして日常言語におさまっていたのは,考え方が反映論/ 唯物論だったからです。

言語明瞭意味不明もよいところだが、遠山啓が「かけ算の順序」に反対したことを正しく捉えているらしいことだけがこの文章の唯一の価値といってよいだろう。

おわりに

以上、小難しいことを延々と述べてきたが、そもそもこのような議論を費やす必要がないことに気づかれたのではないだろうか。
「仮に、学識経験者が雁首揃えても結論が出ないほど難しい話ならば、どうして子供に理解できようか?」
その通りである。普通の人よりもはるかに数学に慣れ親しんでいる者が「かけ算に順序がある」ということを頑として認めないのであれば、百歩譲って「かけ算に順序がある」という考え方が正しかったとしても、それは子供に教える教材には不適切であるということだ。そのような高尚な議論は、自転車置き場あたりで暇な大人が井戸端会議でやるのがよいのである。
大人の馬鹿な喧嘩に子供を巻き込むのはみっともない、それだけでも「かけ算に順序がある」を教えるべきではないということはもはや明らかであろう。

追記

11/17に記述を一部追加・修正した。

ブックマークコメントへ返信(随時追加予定)

以下の引用元はすべてはてなブックマーク - それでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿であるである。

b:id:fnorder なんだ、専門なら裸踊りせずまともに振る舞えるんじゃないですか。でも自然数は可算だけど有限じゃないよね? 2010/11/18

前半については「お里が知れますよ」とだけ述べておく。なお、純粋数学と数理計画*14のどちらが専門に近いかと言われれば明確に後者だ。後半についてだが、ここでは(公理的)集合論に基づく自然数の定義0 := \emptyset, 1 := \{0\}, 2 := \{0, 1\}, \ldotsのことを語っており、自然数が有限集合として定式化されることを言っている。自然数集合が無限集合であることは言うまでもない。

*1:論外である。遠山啓がそのようなことを主張していないのはここを参照。また、遠山啓を師として数学を学んだと言える私でさえ、かけ算の順序の区別に意味があるという主張は想像の埒外であったことことを述べておく。

*2:特に、遠山啓の信奉者を自称するこの人が「かけ算の順序」を推進するのには絶句するしかない。

*3:そもそも、この記事の核心は「おわりに」にある。

*4:N. ブルバキ「数学史」(村田ら訳)東京図書、1970年より「非可換代数学」の章を見よ。

*5:敢えて言うならば、集合の要素数とそれが表す数を一致させている。

*6:星を付けているid:mujisoshinaid:hajimehoshiの両氏にもコールしておく。

*7:この意味がわかる人ならこんな議論を読む必要もなかろうが。

*8:ついでに述べておくが、「東大受験生でも加法定理を証明できない」として学力低下の象徴であるかのようにこの問題が取りざたされたが、ことはそう単純ではない。理由は以下に述べる。

*9:後者の公式は決して自明ではなく、また高校の教科書では通常これを加法定理を用いて証明している。従ってこれは論理の飛躍または循環論法と見なされる。

*10:日本のカリキュラムがもともと、高校段階まではそのように設計されていないのだから当然である。なお、歴史的にも数学の厳密化の流れが起こったのは19世紀以降であり、これは決して日本の教育制度が悪いということではない。

*11:と言いつつ非常に長くなってしまった。本記事の趣旨からは余り意味がないのだが、自分の専門性の関係上どうしても熱くなってしまう。

*12:そもそも、群・環・体のような代数系自体、整数・有理数・実数・多項式のような我々のなじみ深い対象を抽象化したものであって、その逆ではないのだが。

*13:リンク先URLの英語版からの引用者による重訳。

*14:比較の次元が合っていないが言わんとすることはわかると思う。