それでも自然数の積は可換である

このブログは、専門外の人間が外から密輸した理屈で、正しいことを正しいと主張することを禁止する風潮を批判するためのものである。そんな私にとってどうしても看過できないのが、今回の「掛け算の順序」騒動だ。詳細は以下を参照。

かけ算の5×3と3×5って違うの? - Togetter

特に、応用数学を専門とし、中高の数学教諭の専修免許も持ち、さらに子供時代に遠山啓の本で数学に親しみ現在も遠山啓の著作集が本棚に並んでいるというような私としては、まるで掛け算の順序を区別することが遠山啓の意にかなっているかのごとく喧伝される*1のは我慢がならない*2

この件については、上記togetterで既に、学識豊かな方々が大抵の論点には触れてくださっているので、私は今まで余り触れられていない論点

  • 「積は一般に非可換」という言説の妥当性
  • 交換法則の証明は必要か
  • 「定義」や「立式のルール」をどの程度遵守すべきか
  • 北海道教育大教授の論考「『かけ算の順序』の数学」批判

について簡単に触れてみることにする。

なお、以下の議論はかなり技術的詳細に立ち入り、長くなる。ある程度の数学の素養がない方は、途中を読み飛ばし、文末の「おわりに」に飛ぶことをお勧めする*3

素人さんは知ったかぶりをしなさんな

ただし、その前に一言述べておく。この件に関して居丈高に「かけ算の順序」否定派を批判しているこのような人たち

b:id:t-murachi はてな, 大人問題 …そりゃ、スパゲティみたいなコード吐くバカが量産されるわけだよな…orz 2010/11/16

はてなブックマーク - はてなブックマーク - 【ゆっくり理解】なぜ3×5で正答で、5×3が誤答なのか | Kidsnote

b:id:ahyask ブコメひでー.くだらない負け惜しみみたいなのに大量の星がついとる 2010/11/17

はてなブックマーク - 【ゆっくり理解】なぜ3×5で正答で、5×3が誤答なのか | Kidsnote

に代表されるような人、また逆ポーランド記法などと言ってわかった気になっているような人は「釈迦に説法」という言葉を辞書で引き、黙ることをお勧めする。
まず、この件で「かけ算の順序」肯定派を批判している人には前野昌宏先生や菊池誠先生をはじめとする本職の物理学者やその卵がたくさんおり、大抵の素人さんや並の数学教師とは比べものにならないほど数学を骨肉としている。少なくとも、例えば「整数は和と積に関して可換環になる」という文を何も見ずに理解できない人は偉そうな真似をよした方がよい。
また、逆ポーランド記法を用いたところで、自然数の積が\mathbf{N}^2 \to \mathbf{N}という形の写像である事実は何も変わっていないのだから何の解決にもなっていない。え?何を言っているかわからない?ならばあなたも上からものを言うのをやめた方がいい。あなたの考える程度のことを、「かけ算の順序」批判派が考えたことがないと思うのはとんでもない思い上がりである。

「積は一般に非可換」という言説について

さて、本題に入る。
この件に関して、「積は一般に非可換なのだ」といって正方行列の積や3次元数ベクトルの外積を挙げる人が多いようだ。そして、「積は可換に決まっている」と主張する人間をナイーブであると批判する。
しかし、この主張は論理的にこそ正しいが、教育的観点からは全く意味がないと言っておきたい。非可換な積という概念の登場は 1843-44 年まで待たねばならず*4、紀元前から存在する自然数の積という概念に比べて歴史が極めて新しいことを知れば、いかに「非可換な積」という概念が「可換な積」に比べて高次の概念であるか理解できるであろう。
そのようなことを言えば、論理上は自然数よりも集合概念の方が根本的なのであるから、自然数を教えるときに0 := \emptyset, 1 := \{0\}, 2 := \{0, 1\}, \ldotsと教えるべきだ、ということになってしまうが、まさかそのようなことは誰も主張しまい。このような定義は論理的には堅固であるが、直観にまるで訴えかけてこないからである*5

交換法則の証明は必要か

もっとも、こういったところで「とはいえ、自然数の積が可換であることは自明ではない、証明できていない事実を使うべきではない」という反論があるだろう。例えばb:id:Youth_Labo氏のこちらである。

数学的に、交換法則を適用していいのは交換法則の証明を前提とします。その証明を履修する以前に無思考に適用するのは受験数学的手法であり、教科としての数学として正しくありません。
http://togetter.com/li/69117

吉田勇気 on Twitter: "数学的に、交換法則を適用していいのは交換法則の証明を前提とします。その証明を履修する以前に無思考に適用するのは受験数学的手法であり、教科としての数学として正しくありません。 http://togetter.com/li/69117"

また、ブックマークにも同様の指摘があった*6

b:id:kunimiya このエントリがここまで批判されることに驚く。乗法に交換則があるといっても、児童が自力でその法則を導き出さない限りあのケースでは使ってはならないのではないだろうか。 2010/11/15

はてなブックマーク - 黄金原本更新, 【最短理解】なぜ5×3ではなく3×5なのか - ワタタツの日記!(2010-11-13)

これについては、「数学的に、極限操作を適用していいのは実数の完備性の証明を前提とします」云々と混ぜっ返し、高校のカリキュラムにその証明がないことを指摘して終わりとしてもよいのだが、実はこの発言自体、この人が自然数の交換法則をどのようにすれば証明できるかをろくに考えていない証拠であることを指摘しておこう。

さしあたり、自然数の和の結合法則と交換法則は既知とし、乗算を同数累加で定義するものとしてみよう。そうすると、ここから積の交換法則を証明するには、おそらく数学的帰納法を用いるしかない。具体的には、nm=mnを既知とし、和の交換法則と結合法則を用いて
\begin{eqnarray}	(n + 1)m  = (n + 1) + \cdots + (n + 1)		 &=& (n + \cdots + n) + (1 + \cdots + 1) \\		 &=& nm + m \\		 &=& mn + m \\		 &=& (m + \cdots + m) + m = m(n + 1)\end{eqnarray}
などとする。これ以上単純な証明は私には思いつかない。

これが小学生に教えるべきことかどうかは明らかである。まして、分数・小数といった概念が入ってくれば自然に有理数・実数の交換法則をも扱うこととなるが、これをやるためには後述するような有理数・実数の構成を同値類だのコーシー列だのといった概念を用いてやらねばならぬこととなる。こうなると並の大学生でもお手上げのはずだ。

ニュートン力学を完全に理解していない人が特殊相対論を批判するのと同じ構図のような気がしてならない。 http://togetter.com/li/69117

吉田勇気 on Twitter: "ニュートン力学を完全に理解していない人が特殊相対論を批判するのと同じ構図のような気がしてならない。 http://togetter.com/li/69117"

私にはむしろ、あなたこそが「相対性理論だかなんだか知らないが慣性の法則が成り立たない理論など誤りに決まっている」と騒ぎ立てている立場にしか見えない。

「定義」や「立式のルール」をどの程度遵守すべきか

以上のことから、「定義・定理・証明」という論理的な順序を厳格に遵守することの無意味さはおおよそ見当がついたかと思われるが、それでもなお、「かけ算を略記法として 3 \times 5 = 3 + 3 + 3 + 3 + 3のように定義した以上は、証明抜きにでも交換法則を教えられるまではこれを使うべきではない」という主張があるかと思う。
しかし、これも目的と手段を取り違えた議論と言わざるをえない。上に見たように、小学校段階では「定義・定理・証明」のような論理の流れではなく、直観的に自然数有理数・実数といった概念に親しむことが数学(算数)教育の目的である。同数累加などのやり方で積を教えるのはそのための一つの手段にすぎない。そして、教えられずとも交換法則に気づいている子供というのは、自然数の積という概念を既に体得しているのだから、理解が不十分だなどと責められるいわれは何もないのだ。

とはいえ、それでも「『かけられる数』を前に書くのが、具体的問題を数学の世界に落とし込む『立式のルール』であるはずだ、そのルールを破ってよい理由はない」という抵抗があるかもしれない。これは確かに反論としては最も有力なものであろう。だが、結局のところこの「ルール」は、「日常言語」を抽象化によってどのように「数学語」に翻訳するかということであり、本来は正解などないのだ。

2年生でかけ算を習う段階では、「なにがいくつ分ある」というかけ算の元々の意味をきちんと理解した上で式が立てられることと、数の計算の上で可換性があることを知っていて計算に使うことは別だと理解しているか確認するのがこのようなテストです。

http://kita.dyndns.org/diary/?date=20101113%23p02

これは、日本の英語教育の因習とそっくりである。つまり、疑問文に対する応答には毎度ご丁寧に "yes, I do", "no, they aren't" などと念押しをしたり、"often" は「しばしば」のように訳語が決まっていたり、どれほど語順を入れ替えても修飾構造を変えてはいけなかったり、どれほど文が冗長になろうとも代名詞を一々「彼」「彼女」「彼ら」「その」「するところの」などと訳すことによって、自分は文法や単語を知っているということを主張せねばならない、さもなくば減点する、という迷信である。そんな「ルール」があると信じられているのは学校の中だけであり、しかもその「ルール」たるや、生徒に英語を「言語」として体感させることを妨げるだけの有害無益なものでしかないのである。
百歩譲って仮にそんなものが必要だとしても、「『かけられる数』を前に書く」という見るからに不格好で美しくない「ルール」、「かけ算とは、同数累加の略記法である」という冴えない「定義」は所詮、「前置修飾という日本語の構造」という、「日本の学校」特有の事情から生まれた便宜上のものに過ぎず、工事現場の足場のように、用が済んだ後は取り払われるためだけのものなのである。実際、交換法則の導入と共にこのような「ルール」は実は「『かけられる数』を後ろに書く」「どちらを先に書いてもよい」と全く等価であることは自明となり、全く無用の長物であったことが明らかにされる。数学に強い大人ほど「かけ算の順序」などという話に反発を覚えるのはこのためである。立派なビルが既に建っているのに、工事の時点で足場が東側にあったのか西側にあったのかなど無意味な議論だ、どちらからでも建てられるのだから、と。このあたりの感覚は、

Ricciテンソルが256個の独立なパラメタを持っていないように。波動関数全体に適当な位相を与えても同じ状態を指しているように、自然数の乗法においてqpとpqは並べて書く際の表記の自由度に過ぎず、両者はまったく同じ対象を指しているとまだ思ってる。それが可換であるということ。

ACTIVE GALACTIC on Twitter: "Ricciテンソルが256個の独立なパラメタを持っていないように。波動関数全体に適当な位相を与えても同じ状態を指しているように、自然数の乗法においてqpとpqは並べて書く際の表記の自由度に過ぎず、両者はまったく同じ対象を指しているとまだ思ってる。それが可換であるということ。"

というのが最も近かろう*7

そしてこれはかけ算の概念を体得した子供も全く同様である。まして先ほどから何度も述べているように、小学校の算数とは論理的に破綻がないように公理系を構築していくような段階では到底あり得ない。どのような「ルール」つまり「公理系」を採用したかを覚えておき、それに矛盾のないように試験に答えよというのがいかに難しいかは、1999年度の東大入試問題

  1. 一般角\thetaに対して\sin\theta, \cos\theta の定義を述べよ.
  2. 1. で述べた定義にもとづき,一般角\alpha, \betaに対して,\sin(\alpha+\beta) = \sin\alpha\cos\beta + \cos\alpha\sin\beta, \cos(\alpha + \beta) = \cos\alpha\cos\beta - \sin\alpha\sin\betaを証明せよ.

に象徴されているだろう*8。私の知る限り、 \sin\theta, \cos\theta幾何学的に定義した上で、公式 \sin(\alpha+\beta) + i\cos(\alpha+\beta) = (\sin\alpha + i\cos\alpha)(\sin\beta + i\cos\beta)の実部と虚部を比較して一丁上がりとしてしまうという注文通りの罠に引っかかった受験生が非常に多かったとのことだ*9。普通に幾何学的に証明しても決して難しくもないのに、わざわざ見え透いた餌に飛びついてしまうのである。かくのごとく、東大受験生でも公理的な態度は通常身に付いていない*10のに、それを小学生に要求できようはずがないのである。

北海道教育大教授の論考について

さて、最後に北海道教育大学の宮下秀昭教授の「『かけ算の順序』の数学」について。正直なところ、私はこれは論じるに値しないと思っていたのだが、

id:kingate http://m-ac.jp/me/instruction/subjects/number/composition/book/doc/composition.pdf の初出後、これを読んで無さそうなツィートが散逸。読み止め。「理論的( 数学的) には順序が問題になり、実用的には順序は問題にならない」。 2010/11/16

はてなブックマーク - かけ算の5×3と3×5って違うの? - Togetter

というような意見があったので、一言だけ*11触れておくことにする。

この文章のくだらなさは、

「理論的( 数学的) には順序が問題になり,実用的には順序は問題にならない。」

数学は,規範を構築する論理ゲームです。
そして,このゲームの結果を回収したところで「実用論」が出てきますが,これは数学の埒外ということになります。

学校数学の教授/ 学習では,規範論を大事にするようにしてください。規範論をきちんとやることが,数学だからです。

数学は,規範学です。
翻って,数学が規範学であることを妨げるように働くものは,学校数学の「数」を数学にさせない勢力になります。

というところに象徴されているだろう。

よろしい、そんなことを言うのであれば、ニュートンライプニッツの時代の微積分は「規範」に裏付けられていない極めて曖昧なものであった。「無限小を無限小で割る」などという、現代の目では曖昧としか言いようのないことを当時はやっていた。これには当然非難もあったし、フーリエ解析、カントルの集合論ディラックデルタ関数など、新しい概念が登場する度に同じようなことは繰り返された。しかし、一般に数学者と呼ばれないディラックはともかくニュートンライプニッツフーリエやカントルの業績を今になってなお「数学」から除外する者は数学に弓を引く者と言って差し支えあるまい。

実際は全く逆なのだ。公理系というものは、既成の概念の範疇におさまらなくなって厳密な議論ができなくなったときにはじめて整備されるのであって、その逆ではない。工業上の標準規格などとは違うのである。なるほど確かにコンパイラを設計していてプログラミング言語の解釈に迷った時は標準規格を参照すべきだ。だが数学の公理系はそういうものではない。感覚的に捉えられてきた対象を論理の世界に取り込むために後付けで設計されるものだ。それは工学の世界で言えば「モデル化」やその精密化に相当する作業である。

無論、0 := \emptyset, 1 := \{0\}, 2 := \{0, 1\}, \ldotsとして自然数の集合\mathbf{N}を定義した上でこれが可換半群であることを証明し、これに負の数の概念を追加するために\mathbf{N}^2をしかるべき同値関係で割って整数の集合\mathbf{Z}と定義してこれが可換環であることを証明し、さらにこれに除算の概念を追加するために\mathbf{Z}^2をしかるべき同値関係で割って有理数の集合\mathbf{Q}と定義してこれが可換体であることを証明し、さらにこれを完備化するために\mathbf{Q}上のコーシー列の全体をしかるべき同値関係で割って実数の集合\mathbf{R}と定義してこれがなおも可換体であることを証明し、最後に\mathbf{R}^2上に演算を入れて複素数の集合\mathbf{C}と定義してこれが代数的閉体になっていることを示すというような作業はそれなりに大事である。しかしながら、この一連の作業は論理的にはともかく、認知的には「数」を構成的に「定義」しているということではない。むしろ逆で、これは我々が感覚的に慣れ親しんでいる自然数・整数・有理数・実数・複素数などが、我々の期待した性質を持っていることを確認する「検査」のようなものだ*12。その証拠に、数学者といえども普段から自然数を「有限集合」だと認知していたり、実数を「有理数の列の同値類」だの「有理数の切断」だのと意識している人などまずいまい。いたらお目にかかりたいものだ。

つまるところこの人は、論理的に堅固な公理系を構築することが数学の本質だと言っているのである。なんと無味乾燥な数学観だろう!本当にこんなことを思っているのなら、この人の頭の中の「数学」は「仏作って魂入れず」の好例でしかない。言ってみれば、コーランアラビア語で全文諳んじているが、自分はアラビア語を全く解さず、にもかかわらず「コーランと呼べるのはアラビア語版のみだ、翻訳で知ろうとするなど何事か」と、岩波文庫版の井筒俊彦訳のコーランを読む人を見下す人が「イスラーム学」の教師を名乗っているようなものだ。

先日亡くなったロシアの大数学者、V.I. アーノルドの言葉を宮下氏に贈ろう。

物理から切り離されたスコラ的数学は教育にも他の諸科学への応用にも向かず、その帰結は数学者へのあまねき憎悪であった。気の毒な生徒達(その一部が大臣になったりする)や、数学を使う側からの。
劣等感に取り憑かれた、物理学に馴染めない教養のない数学者たちによる構造物からは、厳密な奇数の公理論を想起せざるには得られない。無論、そのような理論を作り上げ、生徒達にその構造(たとえば、奇数個の項の和および積が定義できる)の内なる無矛盾性を礼賛させることは可能だ。こうした分派主義者から見れば、偶数は異端の宣告をなされ、のちに「観念上の」対象として(物理学への応用を口実とした)理論に再導入されることとなるのだろう*13

V.I. Arnold, On teaching mathematics

私には、宮下氏の数学観がこれよりも豊かなものとは思えない。

そもそも、数学を少し本格的に勉強したことがある人ならば誰でもわかるはずだが、

  • 重要な概念の定義には通常、同値なものが複数存在する
  • 定義を暗記することと、概念を体得する間には大きな落差がある

ということがある。つまり、概念を体得する過程にある人においては、一つの定義とその他の定義が違うことを見ることは決して容易ではないかもしれないが、概念を体得してしまった人にとっては同値な定義どれを取っても同様に明快であり、理屈以前に感覚的に体に染みついてしまっているものなのである。たとえば、指数関数を e = \lim_{n \to \infty} \left(1 + \frac{1}{n}\right)^nとした上で\exp x := e^xと定義しようと、無限級数を用いて\exp x := \sum_{n = 0}^\infty \frac{1}{n!}x^nとしようと、はたまた「常微分方程式の初期値問題\frac{dx}{dt} = x, x(0) = 1の解」としようと、どれも間違いというものではない。重要なのは、これらが全て同値であり、一つの定義からお互いを導き出すことができるということだ。そして「指数関数」の本質は、こうした定義(定理)全ての上に成り立つものであって、決して定義一つを論理的に厳密に理解していることなどではないのだ。

そのことを、宮下氏のみならず

何が定義で何が定理なのかを曖昧にしたままでは、かけ算という人類の獲得した知性のアイディアをきちんと味わえません。

http://kita.dyndns.org/diary/?date=20101113%23p02

この人も勘違いしていると言わざるを得ない。上に述べたように、「かけ算という人類の獲得した知性」は、公理系が整備されるより以前からあったからだ。数の体系の代数系としての定式化は、壮大な大伽藍に耐震検査をしてその頑健性を確認したといったそれだけのことにすぎない。確かに現代の「建築家」は皆「耐震設計」の訓練を受けているが、近代的な「耐震設計」の方法論ができあがる前に立てられた「建造物」が全て地震に対して脆弱ではない、それだけのことである。

最後に、宮下氏の論考の結論についても触れておこう。

イデオロギーは,きちんとした勉強に向かわない/ 向かえない者に,「それでいいんだ」と慰撫します。「われわれが正しい考え方を示すから,これの外に出る必要はない」と教えます。
「正しい考え方」は,日常言語におさまるようになっています。実際,日常言語におさまっていることは,イデオロギーの要諦です。
遠山啓・数教協の説く「数学」が今日学校数学を席巻するに至ったのには,ひとの受け入れやすいものであったということが,理由としてひじょうに大きい。そして,受け容れやすいということには,日常言語におさまっているという要素が大きい。そして日常言語におさまっていたのは,考え方が反映論/ 唯物論だったからです。

言語明瞭意味不明もよいところだが、遠山啓が「かけ算の順序」に反対したことを正しく捉えているらしいことだけがこの文章の唯一の価値といってよいだろう。

おわりに

以上、小難しいことを延々と述べてきたが、そもそもこのような議論を費やす必要がないことに気づかれたのではないだろうか。
「仮に、学識経験者が雁首揃えても結論が出ないほど難しい話ならば、どうして子供に理解できようか?」
その通りである。普通の人よりもはるかに数学に慣れ親しんでいる者が「かけ算に順序がある」ということを頑として認めないのであれば、百歩譲って「かけ算に順序がある」という考え方が正しかったとしても、それは子供に教える教材には不適切であるということだ。そのような高尚な議論は、自転車置き場あたりで暇な大人が井戸端会議でやるのがよいのである。
大人の馬鹿な喧嘩に子供を巻き込むのはみっともない、それだけでも「かけ算に順序がある」を教えるべきではないということはもはや明らかであろう。

追記

11/17に記述を一部追加・修正した。

ブックマークコメントへ返信(随時追加予定)

以下の引用元はすべてはてなブックマーク - それでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿であるである。

b:id:fnorder なんだ、専門なら裸踊りせずまともに振る舞えるんじゃないですか。でも自然数は可算だけど有限じゃないよね? 2010/11/18

前半については「お里が知れますよ」とだけ述べておく。なお、純粋数学と数理計画*14のどちらが専門に近いかと言われれば明確に後者だ。後半についてだが、ここでは(公理的)集合論に基づく自然数の定義0 := \emptyset, 1 := \{0\}, 2 := \{0, 1\}, \ldotsのことを語っており、自然数が有限集合として定式化されることを言っている。自然数集合が無限集合であることは言うまでもない。

*1:論外である。遠山啓がそのようなことを主張していないのはここを参照。また、遠山啓を師として数学を学んだと言える私でさえ、かけ算の順序の区別に意味があるという主張は想像の埒外であったことことを述べておく。

*2:特に、遠山啓の信奉者を自称するこの人が「かけ算の順序」を推進するのには絶句するしかない。

*3:そもそも、この記事の核心は「おわりに」にある。

*4:N. ブルバキ「数学史」(村田ら訳)東京図書、1970年より「非可換代数学」の章を見よ。

*5:敢えて言うならば、集合の要素数とそれが表す数を一致させている。

*6:星を付けているid:mujisoshinaid:hajimehoshiの両氏にもコールしておく。

*7:この意味がわかる人ならこんな議論を読む必要もなかろうが。

*8:ついでに述べておくが、「東大受験生でも加法定理を証明できない」として学力低下の象徴であるかのようにこの問題が取りざたされたが、ことはそう単純ではない。理由は以下に述べる。

*9:後者の公式は決して自明ではなく、また高校の教科書では通常これを加法定理を用いて証明している。従ってこれは論理の飛躍または循環論法と見なされる。

*10:日本のカリキュラムがもともと、高校段階まではそのように設計されていないのだから当然である。なお、歴史的にも数学の厳密化の流れが起こったのは19世紀以降であり、これは決して日本の教育制度が悪いということではない。

*11:と言いつつ非常に長くなってしまった。本記事の趣旨からは余り意味がないのだが、自分の専門性の関係上どうしても熱くなってしまう。

*12:そもそも、群・環・体のような代数系自体、整数・有理数・実数・多項式のような我々のなじみ深い対象を抽象化したものであって、その逆ではないのだが。

*13:リンク先URLの英語版からの引用者による重訳。

*14:比較の次元が合っていないが言わんとすることはわかると思う。