匿名ダイアリー氏の批判に答える

私の前記事帰謬法ならぬ帰ナチ法はいいかげんにやめてはどうか - 吾輩は馬鹿であるに対し、匿名ダイアリー記事で批判がなされた。論点としては既出であるが、再度の整理を兼ねて応答したい。

匿名氏の論点

匿名氏は、私が「帰ナチ法」と批判した「トリアージ批判」の論点を

トリアージが倫理的に正当化される理由(資源の絶対的な希少性と、ある基準に基づいた合目的的な資源の最適配分の必要性)と、ホロコーストが倫理的に正当化された理由とは同じである。
したがって、『ある基準』が正当化される限りにおいてトリアージは善だというならば、同様にしてホロコーストも善だといわねばならない。」
http://anond.hatelabo.jp/20090817163735

と要約したうえで、もし「トリアージ批判」が帰ナチ法であれば、さらに弱い主張にしかなっていないはずだと批判した。

私の考えでは、この匿名氏の論点は非常によく見られる誤謬である。この件は既に過去記事「論法の同型性」論法の危うさ - 吾輩は馬鹿であるで触れているが、良い機会であるので今一度触れておくことにする。

匿名氏の論点の整理

まず、上記で引用した匿名氏の文章は、私にとっては一読して内容を理解することが困難なものであるので、指示語を具体的な意味内容に置き換えるなどして書き換えてみる。すると、これは、

  • トリアージは、資源の希少性と、「ある基準」に基づいた最適配分の思想により倫理的に正当化されている。
  • ホロコーストも、資源の希少性と、「ある基準」に基づいた最適配分の思想により倫理的に正当化されている。
  • 従って、トリアージホロコーストも同じ論法によって善とされ得る。
  • ゆえに、トリアージが善とする論法が正しければホロコーストも善である。

と書き換えられよう。

全体最適」は「倫理的正当化」ではない

最初に、明白な誤謬が見つかる。福耳氏の元記事http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127を見る限り、福耳氏は「全体最適」の発想をもってトリアージを倫理的に正当化してはいないし、「善」だとも言ってはいないのだ。これは当然のことで、「全体最適」という発想は非常に抽象的な枠組みであるため、それ自体では価値判断を導き出せないものなのである。このことは過去記事藁人形と戦う前に「最適」の意味を理解せよ - 吾輩は馬鹿であるでも間接的に触れているが、もう一度強調しておきたい。「最適」というのはあくまでもある数学的モデルの上での机上の論理であって、その前提およびモデルの妥当性については当然議論の余地があるのである。

勿論、扱う問題の性質によっては、「最適」性が倫理的正当性の必要条件であることはあり得るし、福耳氏もそのことを含意していたという解釈には私も同意する。しかしこれは決して「十分条件」ではあり得ず、「全体最適」性がトリアージの倫理的正当化であるというのは飛躍である。

「ある基準」の中身は同一か?

さて、問題は次である。トリアージおよびホロコーストが両者ともに「ある前提」のもとで正当化されることをもって、福耳氏がトリアージを正当化した論法が同時にホロコーストを正当化してしまうか、である。実はこれこそが過去記事「論法の同型性」論法の危うさ - 吾輩は馬鹿である以来何度も触れているにもかかわらず、一向に理解されない問題点なのである。

しかし、これは余りにも単純な誤謬である。よく考えてほしい。「ある前提」と指示語を使ってしまうと、あたかもトリアージホロコーストが同じ前提から同じ論法によって正当化されるかのように錯覚されてしまうが、実はトリアージホロコーストを正当化する前提は全く違う。両者をともに「全体最適」の枠組みの中で導出する条件を比較してみたい。

トリアージにおいては、最適化すべき対象を「生存者数」の一点に絞り、制約条件として「治療対象の選別と順序付け」を許容している。

一方、「トリアージ批判派」によれば、最適化すべき対象を「ナチス的価値観における『アーリア民族の繁栄』」とし、制約条件を「ユダヤ人その他『生きるに値しない生命』の生命を含めた権利を無制約に制限しうる」とまで弱めれば、ホロコーストが最適解として導かれる、とされる。

この両者は明らかに同一ではない。トリアージの状況で設けられた条件は、手遅れ者や軽傷者が後回しにされることがあり得るという点で平時とは異なってはいるものの、ともかく生きている人間をわざわざ殺すことはあり得ない。「生存者数の最大化」にせよ、「治療対象の選別と順序付け」にせよ、議論の余地があるとはいえ、それ単体で直ちに否定されるものではない。一方、ホロコーストにおいては、「ユダヤ人の生命はアーリア民族の繁栄よりも軽い」という前提にせよ、「ユダヤ人とアーリア民族は共存できない」という現状認識にせよ、言語道断なほど誤っている。

いくらなんでもこれでおわかりであろう。生存者を最大化するための「トリアージ」と、人命を極度に軽視する「ホロコースト」は全く一致していないばかりか、ナチズムと那智の滝ほどの表面上の類似すら持ち合わせていないのである。

そもそも、「ある基準に従えば全体最適の枠組みの中で○○は正当化され得る」というのは単なるトートロジー*1である。即ち、正当化したい対象を仮に"A"と呼ぶのであれば、「Aはいかなる条件のもとでも正しく、これを遂行することが至上の価値である」という「基準」を設ければ任意の対象を「全体最適」の枠組みの中で最適化できることは明らかであろう。即ち、実はこの議論にはまったく意味がないのである。

何らかの問題を「全体最適」の枠組みで考えることに意味があるのは、一般的に妥当と考えられる前提から、より実践的な結論を導き出せる場合に限られる。そして、その結論自体もまた再検討が必要なことは上に述べた通りであって、決して「全体最適」であること自体が何らかの正当性を直ちに与えてくれるわけではないのだ。

ホロコースト否定は当時のドイツ人への冒涜?

なお、匿名氏は、私がid:sarutora氏の「小泉・竹中・橋下」支持者への態度に呈した苦言を逆手にとって、

法的・民主的手続きによって選出された政治権力が決定した基準に基づいて、合目的な資源の最適配分として遂行されたホロコーストを、価値基準が間違っていたという理由で非難し、トリアージと一緒にするな!と言うとすれば、それは当時のドイツの選挙民への「冒涜」ではないかと思うが、いかがであろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20090817163735

と批判しているが、これが誤りであることは言うまでもない。私は前記事帰謬法ならぬ帰ナチ法はいいかげんにやめてはどうか - 吾輩は馬鹿である末尾において「選挙民は無謬である」と決して言っているのではなく、「結論が明確に示されているわけでもない問題に対し、理由を挙げずに選挙民の結論を否定することは、選挙民への冒涜である」と言っているだけなのである。これに対し、ホロコーストが歴史上の汚点であることは誰の目にも明らかなのだから、このように限りなく誤った帰結をもたらした一因である当時の選挙民を、これをもって批判することは全く不当ではないのである*2

*1:同語反復的な無意味な議論。「雨が降る日は天気が悪い」など。

*2:もっとも、全権委任法以前の選挙においては、ナチスは第一党になったことこそあれ、過半数を獲得することはできていなかったはずである。