コメント欄再延長

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CloseToTheWall氏のコメント

レスし忘れていましたが、

「ある仮定」のもとでは「トリアージ」が「最適」であるとしか言っていない。そして、その「ある仮定」には言及していない。福耳氏は「科学的妥当性」のレベルにしか言及していないのだから当然です。

これ、わたしからすると、あなたの自爆に見えるんですが。その「ある仮定」を明確にしないからこそ叩かれたのだし、福耳先生は現実のトリアージの有効性を語ったのであって、「科学的妥当性」のレベル以上のものに言及しているはずです。あれ、「トリアージ」の有効性が、「科学的妥当性」に含まれるんですか?

それについて言及できるだけの材料はありません。はっきり言えることは、福耳氏は「全体最適」という思考の「型」を教えたかったということです。

その「全体最適の型」というのは合理的思考の必然としてハイコストなものを切り捨てることが含まれているので、福祉業界でも合理的思考の必然としてハイコストなものを切り捨てよ、そう考えるべきだと福耳先生は講義したと言うことですね。そうでないと考える理由がありません。「ある仮定」を明確化せず、そのままの文脈で福祉業界を語った以上、当然こう読まれますね。

話がずれています。私のそういう(仮想的な)反応が「ナイーブ」として評されることは不当か、ということです。

ナイーブと評された上でそれは正当です。ナイーブなことを扱う学問なんですから。わたしはナイーブそれ自体は問題にはしません。ただ、ナイーブな判断を持ち込むことを非難する福耳先生の態度を批判しています。

だとするとどうしてここまで福耳氏が激しく批判されたのか説明になっていないと思います。

あなたのいう「論法の同形性」論法の危うさ、からです。hokusyuさんの文章をどう読んだんですか? その論法でトリアージを引き合いに出しても良いなら、同じくホロコーストも「全体最適」の良い事例になるよ、ということです。福耳先生の論法のまずさを指摘するためにホロコーストを出したのが hokusyuさんであって、では、ホロコーストトリアージ、及びトリアージ経営学がいかに異なるかを批判派は折に触れて指摘してきたはずですが。相当の留保や前提が必要になるので、安易に例示して良い話じゃないということ、では、福耳先生はその相当の留保や前提をきちんと説明していたかというのが疑問になり、しかし、福耳先生はトリアージを語る際にはきわめて重要な倫理的態度をむしろ非難してしまった(これは前提や留保への無配慮の何よりの証左です)から大批判、という流れだと思います。(あなたも「ある仮定」が説明されていないと認めた訳ですから、異存ありませんね)

どこかわからないところがありますか。

事実記述と価値判断は別物だ、のひとことで終了です。論じるまでもありません。

???どういうことですか? sayok氏の立論は事実としてそうなる、というだけだということですか? というか、事実を提示することと価値判断を伴うことは排他的ではないし、むしろ伴うことが多いんですが。事実を提示しているように見せかけて価値判断を提示していることの多さったらないですよね。

だとすると単なる主観的な読解の問題だということですか?

その読解の根拠は提示しました。

あれを「自己責任論」と読んでしまうのは、それこそ事実記述と価値判断を混同していると思います。実際、同情的な立場であってもああいう台詞は出てくるでしょう。

これは驚愕です。あれが事実記述ですか。どこまで恣意的に読めばそうなるんでしょう。あそこには、福祉業界で燃え尽きるOGが居る、ということだけしか事実らしきものは記されていません。燃え尽きる原因が全体最適の考えがないからだというのは完全な憶測であり、憶測を根拠に非難しているという擁護しようのないものですよ。しかも、福祉業界の経営的不調というのはかなり知られた話なのに、 OGの労働環境への考察が全くなく、社会全体で負担すべき福祉予算の貧弱さ(資源の有限性)という社会的視点もない、典型的な自己責任論の論理で書かれていますが。自己責任論の論理は、社会的視点の排除と個人への責任転嫁です。また、現場の人間こそがその自責の論理(わたしたちのやり方が悪いからだ)に嵌ってしまいやすいからこそ、自己責任論は悪質なんです。同情的な立場から同じ台詞が出てきたところであの発言は少しも相殺されません。

女叩きでない、と言ったときも驚愕しましたが、あなたの読解は過剰に価値判断を切り捨てすぎではないですか? わたしだけでなく、あの記事が女叩きの典型的なものだったことは、かなりの人が認識していたと思います。擁護派の人も。その点で修正前の方が文意はハッキリしていた、というのが結構一致した見解だったと思います(叩くにしろそうでないにしろ)。

あなたの読解とわたし(やそのほかの人も)の読解がどうにもスリあわないのは、ここが原因でしょうか。まあ、もちろんあなたとわたしの主観的相違ともいえますが、あなたの読解はかなり変ではないかと思うんですが。

ohkami3氏のコメント

横からすみません。
Sokalianさんがフェミニズムの授業で「性」を扱われて不快になられることは学問の性質として素晴らしいきっかけであると、ご本人様のお気持ちには沿わないとは思いますが言わせていただきます。
そもそも「性」は生命を生み出すものであり、(極めて親密な関係に限られますが)人間に昔から確立されているコミュニケーション方法。
↑これがおっしゃるような「科学的」で「合理的」な判断なんでしょうけれど、しかし少なくとも現代日本ではタブーとされ公の場で出されると「不快」と感じる人がいる。これは数学や物理における真実とは違います。でも、それを「不快」と感じる人は当然いるだろうと推測されますし、何故それは「不快」と感じられるかを考えることはフェミニズムの重要な論点の一つです。

Sokalianさんは、授業における「講師の話」という事実を重んじるあまり、「ご自身のジェンダー観」というこの学問についての重要な事実を切り捨てていらっしゃったのです。(そのために無益な不快体験を嫌々するという結果になられたのが残念でなりません)

今回、学生の側にもSokalianさんと同様な「大事な事実の切り捨て」があったとお考えになるかも知れませんが、逆にSokalianさんや福耳氏の方が大事な事実を切り捨てている可能性はないでしょうか?

あと、「経営学トリアージはほとんど関係なく合理的思考の枠組みだけを説明した」のであるならば、経営学の講義で経営学を教えずにしかも関係ないその話を理解しないからといって「これだから福祉業界に就職しても数年で燃え尽きる」なんて批判なさったら、余計に福耳氏が講師として酷いということになりませんか?