「論法の同型性」論法の危うさ

私の関心の中心は、トリアージホロコーストを関連づけて批判する論法の粗雑さにあった。これについては何度か断片的に述べてきたが、ちょうどこの論法を要約した記事歴史の教訓とすべき人類史の悲劇が大袈裟な罵倒と解釈されてしまう件 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかを紹介していただいたので、これを材料に再度私の主張を要約したい。

全員を生かすことはできない資源不足の中で、その合理的な解決方法として生かすものと死なすものの選別が行われたのです。
これをなんと言えばいいのでしょう。「地獄への道は合理性で舗装されている」とでも言えばいいのでしょうか。
勿論、これは皮肉で合理性自体に問題があるわけではありません。「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉において善意自体に問題があるわけではないように。
合理性自体は有効です。
例えば極限状況下での救急救命のためのトリアージ。これも合理性に基づいて定められた判断基準でなす生かすものと死なすものの選別に他なりませんが、その選別によってより多くの人命が助かるのです。
では、生かすものと死なすものの選別という点において同様なホロコーストトリアージを分かつものは何でしょうか。
それは人道性。

さて、ここで逆に問うてみたい。ホロコーストトリアージの共通点はどこにあるか?「資源の希少性」と「合理主義」しかないのである。ホロコーストトリアージを関連づけている人たちは、この2点だけの共通点だけの根拠しか持っていないのである。
しかし、「資源の希少性」を「合理主義」的に処理する問題は世の中にあまりにもありふれていて、この指摘にはほとんど意味がない。そんなことを言ってしまえば、企業内の人員配置計画も、我が家の家計も、すべて「ホロコースト」と同型の論理に支えられている、と言えてしまう。「丸い」というだけの共通点を例にとって、「月」と「スッポン」を同列に並べるようなものだ。その指摘が意味を持つのは、位相幾何学の啓蒙書の中ぐらいだろう。
このような「共通点」を指摘する論法で一番重要なのは、「共通点」として問題の本質を衝いた要素を拾い上げることである。ところが、今回の問題は「人道性」という、ホロコーストにおいて最も極端に欠けていたものを度外視している。
このような論法が許容されるなら、あらゆるものを同列に並べることができるだろう。私が再三挙げてきた、「お前は人間である、ヒットラーも人間である、よってお前とヒットラーには共通点がある」という、侮辱以外に何の役にも立たない論法を使えばよいのだ。

しかしながら、ナチスホロコーストという言葉を文脈的にきちんと歴史の教訓として持ち出しても大袈裟な罵倒と解釈されてしまいがちなのは、そういう目的で安易に使う人が多いからとはいえ、悲しいことです。

実際、麻生氏の「民主党ナチス」発言は一応「歴史の教訓」として持ち出されたのではなかったか?