ブルータスお前もか

そもそも私がこの「トリアージ騒動」に参入したのは、「物言えば唇寒し」という風潮に一石を投じたかったからである。
いわゆる進歩的な人たちから蛇蝎のごとく嫌われた安倍政権下、"KY"という言葉が流行語となり、「絆創膏騒動」や「産む機械」発言などによって多くの政治家がマスコミによって首を狩られた。彼らにはその他に確かに批判されて然るべき言動があったのかも知れない。しかしながら、皮膚の状態などといった個人的なことを隠すことや、人間を比喩と断った上で機械に喩えることが問題であるはずがない。そうでなければ、他人のカツラを引っぺがすようなことも肯定されるようになってしまうし、イチローを「安打製造機」と呼ぶことも許されなくなってしまうからだ。
だが、世間はそうは問屋が卸さなかった。誰がどのように上のような正論で抗弁しようとも、「不適切」「不適切」の一点張りだった。そして、何が不適切かを突き詰めても、最後は「空気が読めない」という、説明になってすらいない断罪で終わってしまうのだった。
「国家安康」を思い起こし「文字の獄」とつぶやいたのは独り私だけではあるまい。いわゆる進歩派の人は安倍政権を散々ファシズム呼ばわりしていたが、私に言わせれば"KY"の方がよほどファシズムに近かったと思う。
そして、今回の「トリアージ」の一件にも同じようなことを感じるのだ。問題となった記事をどう読んでも、「トリアージ」が「ホロコースト」に結びつくようには思えない。それなのに、普段は良識の溢れる人たちがこぞって「ホロコースト」「ホロコースト」と言っている。心底背筋が寒くなったものである。

「話せばわかる」「問答無用」

こうした人たちに共通する論法は、「文脈を読む」ことである。その文脈というのがどこから現れるのか私には到底理解できないのだが、どうも、発言者の意図を辿っていくと「ホロコースト」との決定的な一致点が見つかるということのようだ。だが、百歩譲ってそうだとしても、おそらく「国家安康」についても同じことが言えるだろう。当時の豊臣家が徳川家康を内心呪詛していたとしても何の不思議はない。しかし「国家安康」ごときのことが、当時の道徳観を持ってしても攻め滅ぼされるほどのことであるはずがないのだ。それだけのことから、豊臣家が敵意を実際に行動に移すという確証は到底読み取れないからだ。
産む機械」や「トリアージ」もこれと同じである。そして「絆創膏」はそのレベルにすら達していないことは言うまでもないだろう。
この種の属人論法はことほど左様に不毛なのだ。相手が何を考えているかを最初から色眼鏡で見ていれば、全てを悪意に解釈できる。それだけのことで何でも悪意に解釈されてはたまらない。
議論というものは、相手の意見だけを虚心坦懐に読み解いて解釈しなければならない。相手の人格と、相手の言ったことの間には何の関係もない。ニュートンフォン・ノイマンが人間的に最低であったといくら言ってみても、彼らの科学的発見の価値を貶めることはできないのだ。

K416氏へ

私が約3名にまともな対応を取らないのはそういうことなのです。彼らは最初から、私の主張自体ではなく、私の人格自体をターゲットにしている。まともに相手にすればするだけ損なのはおわかりでしょう?だからこそ、怒りにまかせて極めていい加減で不誠実な対応をしている。本気で相手にすればするだけ、邪推の刃によって傷口を拡げてくるだけだから。
そのことを、例の約3名が理解できるとは端から期待していませんが、例の約3名とは異なり誠意を十分にお持ちのid:K416氏にご理解いただけないのは極めて残念に感じています。

あと、「明日は晴れ」「一日後は雨」っていう比喩に倣ってこの話をたとえるなら(この比喩もちょっと微妙な気がしないではないのですが)、「明日は晴れるよ」と言った人が、一方で今日の天気予報をはずしてたら、明日の予報の妥当性がまだ判断できない状況では、「え、この人の予報信じれるのかしら」って気になりますよね。って感じの話になると思うのですが。
http://d.hatena.ne.jp/by-shimauma/20080905#c1220895936

私自身は大した人間ではないし、あの手の輩に信用してもらいたいとも最初から期待していません。ただ、私が信用できない人間であるとしても、私が言ったことから逃げる口実にはならないはずで、例の人がやっているのは極めて無意味な批判なのです。
加藤智大が殺人者であるからといって、彼がネットに書いていたワーキングプアの絶望自体が無効になるわけではありません。ワーキングプアはやはり問題なのです。

相手を批判する際に相手に求めるものよりも低い水準の論理性や根拠から文章をお書きになる傾向があるような。下で書く「蒸し返し」や「揚げ足取り」もそうなんですけど。何か、相手の批判を小さくするような表現を用い、ご自身の主張を大きくするような表現を用いられる傾向がおありになるような気がします(おそらく意図はされてないんでしょうけど)。
http://d.hatena.ne.jp/by-shimauma/20080905#c1220895936

仮に、これが例の約3名以外に向けられた批判に関してであればご指摘いただきたいのですが、最初から例の約3名には真面目に対応する気がないので、それはわざとやっていることです。私は不誠実な相手には基本的に不誠実にしか対応しないことにしています。

たとえばhokusyuさんの文章(http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080812/p1)とかを読むと、「fuku33さんの文章全体にトリアージが貫徹してる」ってことが批判されてるんじゃなくて(そういう批判ってありましたっけ)、トリアージを一般的な経営学の文脈で(百貨店の運営と同列のものとして)例示として持ち出したことが批判されてるわけです。
http://d.hatena.ne.jp/Sokalian/20080901/1220276877#c1220896827

まず、hokusy氏の記事には「ここが重要なのですが、福耳先生がトリアージをたとえに経営学を説明したという誤りは、単なる軽率ではなく、彼の思想そのものに内在しているということです」と書かれており、それは同氏が「テクストから読み取る」ことをした結果だということです。とすればこれは「fuku33さんの文章全体にトリアージが貫徹してる」ということになるのではないですか?
それに、「トリアージを一般的な経営学の文脈で(百貨店の運営と同列のものとして)例示として持ち出したことが批判されてる」のだとしたら既に私が批判したことで片が付いていますよ。「彼のテクストを純論理的に解釈すれば、ナチスだって適切な組織となってしまうであろう」というのは、「適切」さを測る基準次第によってはそうなってしまうのは当たり前であり、そしてそれは経営学の守備範囲外だと、コメントの元記事で指摘した通りです。

この文章内で、B(百貨店の話題)とC(トリアージ)は全く並列なのです。

というのは、tikani_nemuru_Mさんのところで書いておられた

そして、福耳氏の講義で持ち出された例は「トリアージ」でした。トリアージ経営学の文脈で読み解くことは、災害救助のための組織(救急隊など)の運営を意味していることは明らかであり、こうした組織があなたの言われる「有用性」を目的することはあり得ません。

という文章と食い違っているように思われます。百貨店と並列的に出されていると言うことは、「災害救助のための組織」に限定されるものではなくて、もっと一般的な合目的的組織(あるいはその運営)の例として出されているんですよね。
http://d.hatena.ne.jp/Sokalian/20080901/1220276877#c1220896827

何も食い違っていませんが。百貨店も「災害救助のための組織」も「一般的な合目的的組織(あるいはその運営)の例」であるという点で「並列」なのです。
そうではなく、まさにあなたがいま言われているように、「百貨店」を一つの例示と見なし、「トリアージ」を「もっと一般的な合目的的組織(あるいはその運営)の例」という次元の違ったものとして読み取ることが、原文から読み取れない飛躍的な解釈、端的に言って誤読であると私は言っているわけです。福耳氏の文章の構成からは、トリアージを百貨店と次元の違う特別なものとして読み取るべき、という含意はどうやっても読み取れません。