アホ話の補足

id:Dr-Seton氏から反論があったので再反論。

包丁に罪はないと何度言わせる?

本項引用元:そろそろホロコーストについて言っておくか - シートン俗物記

福耳先生の述べた

資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127
というスタンスは、レイシストでもアーリア民族至上主義者でもない“ありきたりの”テクノクラートが如何に「ホロコースト」を(自分の中で)正当化しえたか、に共通するものなのです。

いや、だからそれがどう本質的なのかが「理解できない」と私は何度も述べている。
そのような事実は余りにもtrivialであって、福耳氏を批判する根拠となり得ないであろう。私は何度も欠いたが、殺人犯が包丁を持っていたからと言って、包丁を持っていた料理人を非難するのはお門違いもよいところである。
そのようなtrivialな共通点の指摘が他人を非難する根拠になるのであれば、どんな他人も批判の対象になり得る。これも何度も挙げているように、「○○は人間である、ヒットラーも人間である」云々である。○○には任意の人名を入れればよい。

トリアージだって「助けうる最大人数を選別する」というのは、「助かる人数がたくさんの方が良い」という、特定の政治的な文脈によるものです。選別に漏れた人、身内にとっては他の人間がどうなろうとも、身内なりが助かる方が“良かった”のです。

そりゃそうでしょう。だが、それは「私情」以上のものにはなるまい。そのことを指摘することで何か建設的な提案がおできになるのであろうか。できないのであれば、あなたのその言い分は単なる「難癖」である。

アホ話は承知だが、人格攻撃と揚げ足取りはご勘弁願う

本項引用元:増田に突っ込み - シートン俗物記
本項ははっきり言って読むに値しないので、賢明な読者の方はお読み飛ばしになることをお勧めする。

暴走リスクが例えば「1万年に一度」としても、それは1万年後に起こる、事を意味しない。(略)抑制できる、というのは思い上がりにしかすぎない。

これも「ためにする議論」としか思えない。誰しも、一定以下のリスクには目をつぶって生きているのであり、そうしなければ到底生きてはいけない。例えば、あなたの毎日の通勤の途上で通り魔に遭うリスクというのも当然存在するが、あなたはそれについて何か対策をされているか?毎日遺書を認めてから出勤なさっているか?

つまり、リスク確率の見積もり自体が「中立ではない」可能性に思い当たらないと。

あなたの事実関係の記述についてはひとまずそのまま信用しておくことにするが*1、それは単純に見積もりが誤っていただけのことで「中立ではない」ことにはならない。確かに本人の政治的立場その他の願望が見積もりの誤りを誘発することはあり得るが、そのことが「見積もりの方法論自体の価値中立性」を損なうことにはならない。そもそも、原発のリスク評価に文句があるならば、原発反対派も独自にリスク評価を行えばよいだけの話ではないか。

行われているのは“トリアージ批判”などではない。

批判側はそのように口を揃えるが、今までなされた説明を見る限り、実質的にあなた方の言動が「トリアージ批判」でなかったとは私には到底信じられない。

どんな学問であろうと、それが価値中立状態にある、と考える事自体、ある政治的ポジションでしかない。

そう思いたければそう思ってもよいが、では、例えば選択公理*2を認めるか認めないかが政治的価値と無関係であると主張することはどのような政治的ポジションに相当するのか説明して頂こう。

科学的に人種差別を正当化する根拠を持ち出すように、科学的に超越者の存在を正当化する根拠を持ち出す。それが「創造科学」。

そんなことをおっしゃるなら、優生学や創造科学はまともな科学の体をなしているとでもあなたはお思いなのだろうか?少なくとも、優生学は「進化の上での優位」を「個体としての価値の優位」と混同した明白な科学的誤謬に基づいたものだし、創造科学はそもそも反証不可能なので明らかに科学の体をなしていないのだが。

“未完成”なので倫理的前提を挟まない、とすれば、“永遠の”未完成になるだけだろうよ。

どんな屁理屈ですか。現段階で倫理的な結論が出せないというだけのことをどれだけ拡大解釈しているのだか。

マンハッタン計画も同じように
「価値判断や倫理の問題を学問的に整備してから先に進むなどという高踏的なことをやっていては、それこそ救えるはずの命が救えないことも多くあるはず」
として進められた事は承知しているんだろうね?

私が元記事で言ったことは

仮に、倫理的な前提を度外視して最適解を求めるのが経営学だとするなら、そのこと自体は価値中立的なのだ。その解を無批判に現実に適用しようと政治的に動いた時点で、はじめて問題が生じる。
トリアージ批判が理解できない理由 - 吾輩は馬鹿である

である。あくまで紙上の理論的考察の段階のことのみを念頭においており、正直「実験的段階」のことが頭から抜けていたことは認めざるを得ないが、しかし「実験」も「現実に適用」の一環であることには違いがないのだから、核開発という行為自体が政治色を帯びているのも当然である。この件に当てはめて言えば、私が言いたかったことは、紙上で核反応の計算をすることが反倫理的であるはずがない、ということだ。

工学系でゲージ理論が登場する分野なんてあったっけ?自分も集中講義で量子色力学素粒子論などやったけど、正直ついて行けなかった。群論がニガテだったこともあるけど。
単にゲージ理論って言いたいだけじゃないの?

敢えて売り言葉に買い言葉で言うが、群論ごときも理解できないあなたにそのような上から目線の下種の勘繰りを言われたくない。単に、私の手持ちの知識の中で啓蒙書に出てきそうな分野を挙げただけだ。ハッタリをかましたければ、サイバーグ=ウィッテン理論だの幾何学的測度論だの、いくらでもその種の用語を持ち出すことができる。そもそも、ゲージ理論などは数学的には単なるファイバーバンドルの理論に過ぎず、極端に難解なものなどではない。
そして、私が工学系の専門だなどと述べたつもりはない。敢えてあなたの勘繰りに付き合うならば、理学系の専門知識と工学系の専門知識を兼ね備えて持っている人間は境界領域にいくらでも存在するし、境界領域でなくとも、進学や就職の過程で進路変更をするなどしてそういう人間ができあがることはいくらでもあり得るだろう。後は勝手に想像するがよい。

追記:ブクマに反応

b:id:tokoroten999 その発想はなかった 「私に理解しうる部分の印象と、信頼し得る知識を持った人の意見などから、反原発派の圧倒的大多数はネット右翼レベルの知識しかないことは確信」自称理系の人の論理展開はすごいでござる。

これは大抵の人が普通にやっていることです。例えば私は南京事件については、原発よりもっと断片的な知識しかありませんが、ネット右翼南京事件に関する主張は論ずるに値しないと考えています。その理由は、私が断片的に持っている知識と、それからそれこそid:Apeman氏のような人への信頼があるからですよ。

b:id:CrowClaw weblog 想定される「全体」のために「だが、それは「私情」以上のものにはなるまい」と切り捨てるような考え方が危険だと言っているのよ。まあ「我輩は馬鹿」らしいから何言っても無駄なんだろうけど。馬鹿を自称するなカス

その種の自称人文系の繰り言は聞き飽きた。なんでも「切り捨てる考え方が危険」というだけで具体的にどのような危険が生じるかを全く論じようとしないのだから。

b:id:ohkami3 だからオマエ、包丁(トリアージ)を厨房から出て街中(非常事態以外)で使おうとしてる経営学者さまが危ないと何度いったら…

思考実験にとどまってるということは、仮に「街中」で使ってるとしても「脳内街中」ですよ。そういう状況に想像力を及ばせる訓練事態は必要なことです。

b:id:K416 横からすみません 「人間であるから」ではなくて、「同型の思想(の萌芽)が見られるから」って話では。たとえば、権威主義全体主義を導いたって話があって、権威主義が今も(同様の文脈で)問題視されることがある。それと同様に

私はそれが「同様」と思えないのですよ。権威主義全体主義を導く蓋然性はかなり強いですが、この件の福耳先生の講義がホロコーストを導く蓋然性がどれほどありますか?それを「糞もミソも一緒くた」と言っているのです。

b:id:flurry ところで「資源量と評価関数を頂けたら最適化しますよ?」的な専門家というのは、id:fuku33さん的な経営学(現場主義!)からは激しく嫌われると思うのですが、その点に関していかがお考えでしょうか?>id:Sokalianさん。

私の意図はそういうものではありません。福耳氏がどういう思想の持ち主かはともかく、「机上の議論より現場に重きを置く」ことと「机上の議論を放棄する」ことは全然違います。私は「机上の議論ができてこその現場主義」だと思います。

*1:原発派が鬼の首を取ったように出してくる資料の多くは、ネット右翼が持ち出してくる資料と同様、眉唾物である。私は別に原子力の専門家ではないので、そのことを判断できるのはその中の一部の資料のみについてであるが、私に理解しうる部分の印象と、信頼し得る知識を持った人の意見などから、反原発派の圧倒的大多数はネット右翼レベルの知識しかないことは確信しており、その種の議論に乗るつもりはない。

*2:ぐぐれカス