コメント欄延長

経緯

本記事は、捨て駒にされる将棋の駒は「かわいそう」か - 吾輩は馬鹿であるのコメント欄の続きである。
なお、以下に示す文章は、id:CloseToTheWall氏によって記入されたコメントである。容量制限により反映されなかったので、ここに転載しておく。
なお、読みやすさのため、同氏が私の発言を引用した部分は引用形式に変換した。
これに対する返答は、その下に付する。

CloseToTheWall氏のコメント

こちらでまとめて返答致します。

そして、福耳先生のやったことは、「経営学における最適化のモデル」に緊急時の状況を代入すれば「トリアージ」が有力な解として得られる、という例示にすぎません。

トリアージを例に出した段階のみで考えればそうかも知れませんが(そしてそこだけが問題になっているのではない以上、モデル、代入、解という思考実験が福耳先生批判の核心ではないことはご理解ください)、皆が問題にしているのはその反応に対して福耳先生がなんと返したか、というところだということは繰り返し説明していることです。

大切なのは、これは「公式」(機械的な方法論といった方が正確でしょうか)の説明であって、その公式からどのような結論が導かれるかということには何も触れていないということです。

いや、触れていると思いますが。女学生への反応はその証拠です。そこから、彼が何を肯定すべき主張として認識しているかが分かるんです。

資源が無限という状況を想像することの方がよほど難しく感じられます。

いえ、資源が無限なんていうことは要求されていません。「資源の有限性」と「切り捨てられてはいけないもの」との具体的な比較、というのが人が死に至るような状況では決定的に重要だ、ということです。会社を整理するときに解雇、というのは、相応の理由があれば許容されます。失業保険とかあって、すぐ死ぬわけではないですから、会社に絶対に解雇するな、という要請はさすがにできない。将棋とトリアージが事例の価値としてまったく異なる、というのはそう言う意味です。人を切り捨てる状況だとしても、トリアージと会社整理、という状況では、「資源の有限性」の絶対性がかわります。

むしろ、極限状況のなかで「福祉の精神」を少しでも生かそうとした結果出てくる結論が「トリアージ」なのではないでしょうか。

これはそうなのですが、福耳先生の対応がやや問題になるんですよね。以下。

そこに「極限状況」を代入したら「トリアージ」が出てくるよ、というのが福耳先生の話です。当然、「極限状況」でない状況を代入すればもっと穏当な解が得られるでしょう。

福耳先生が批判されていたのは、まさにこの点でした。なぜ「極限状況」を代入しなければならないのか。あなたは、どれを代入しても思考実験としては等価であり、別に違いはないし、「資源の有限性」というルールを教えるためにはむしろ極限状況が望ましいともいえる、と仰るでしょう。

なお、トリアージのように人命救助に優先順位付けを迫られる状況は「極限の非人間的状況」だけで発生されるわけではありません。たとえば、医師が一人しかいない病院で患者二人の容態が急変すればどうなるでしょうか。

しかし、問題は、福耳先生もあなたもそうですが、なぜ「誰かを犠牲にしなければならない」ような状況を選んでしまうのか、という点です。たぶん、上記の病院の事例でなら、程度が軽いものであれば、治療順序に優先順位をつけることというのは日常行われることですが、こと生命がかかわってきた場合話が変わります。そういう話の場合、学生は近くの病院から医者を連れてくる、非番の医者を呼びつける、として「資源の有限性」という前提を越える回答を示すものが出てくるでしょう。おそらく、福耳先生はこうした回答が出たら、「資源の有限性」をより強調するため、他に医者が誰もいない絶海の孤島での事例として再提出するんではないかと思います。しかし、これこそが問題なのです。ここで行われていることは、「誰かを犠牲にしなければならない」ことが「必然」となるように状況を操作することです。緊急時の「トリアージ」は、治療しても助からないだろう患者を優先しないことに特徴があるといいます。これは、平時の医療倫理ではありません。医療は、出来うる限りの治療可能性を志向します。不治の病だからといって治療を放棄するなんてことは倫理的にきわめ$FLdBj$N$"$k9T0Y$G$9!#*1

トリアージ」を例示したとき、経営学の考え方の説明のはずが、「合理的に資源を配分したとき、犠牲が必然となる」という信念の押し付けに変わっている、と言うのがたぶん問題になっている。もちろん、あなたは「いや、「トリアージ」では事実としてそうなるだけだ」とお考えでしょうが、事実をどのように配置するかで、ただの事実の羅列以上の意味を持ってしまう、ということです。そして、信念の押し付け、と見なされたのは、女学生の反応をナイーブだと見なして感情的に非難したからです。合理性の当然の帰結の話をしているのに、感情的反応を返すなんて、という風に反発してしまうことこそが、「ホロコースト」を可能にした「犠牲」を「必然」のものとする論理なんです。

そして、まさに「トリアージ」当事者となった(あなたが誤読による反応だと述べた)医者の方の発言は、そうした感情的な反応は、まさに「トリアージ」において否定されてはならない要素であるということなんです。「トリアージ」はやらなければならないことではあるとしても、その当事者が自殺を選んでしまうほどの感情の負荷を抱えるものであって、それは確かに切り捨てられる人が「かわいそう」だからです。そう感じるナイーブさを失ったとき、犠牲は必然だから仕方がない、という「資源の有限性」から前提された「合目的的な資源配分」という合理性の帰結として遂行されたホロコーストの論理を阻止することができなくなる、ということなんです。

これに関しては、以下の福耳先生の発言を見てください。

やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。これ、「トリアージの判断をしなければいけないお医者さんたちもつらいだろうな」というのではないんですよ

ここは福耳先生の発言のスタンスがどこなのか、致命的に語っている部分だと思われますが、どうですか。普通どう考えても、より「かわいそう」なのは当然死の間際で切り捨てられる側でしょう。なのに、福耳先生は、この反応に同意するのでもなく、切り捨てられる側もかわいそうだけど、医者の方も苦悩して居るんだよ、と並列させるのでもなく、ごく自然に切り捨てる側に立ち、切り捨てられる側への同情を否定したんです。なにがやばいって、ここが一番やばい。今読み直してみて、びっくりしました。自分がこれをスルーしていたことについても。

そして、続くこの発言を見てください。

そりゃあ、この大学のOGが、福祉業界に入って数年で燃え尽きてしまうというのは当たり前だよこれじゃ。この人たちの目に映るのは「目の前の最善」だけで、「全体や組織から見た最適」というのはコンセプト自体が頭の中にないのだ。

この部分で、福耳先生は、OG(女性ですよ)が燃え尽きるのは、「合目的的な資源配分」をして、どうしようもない部分は切り捨てるのは仕方がない、という理性的な判断が出来ないから、燃え尽きるのだと考えておられます。「目の前の最善」だけでやっているから、燃え尽きるのだ、と非難しておられますが、考えてみてください。福祉業界でOGたちが燃え尽きないように合目的的な資源配分をして切り捨てられるのは誰ですか。福祉を受けなければならないような人たちですよ。切り捨てられたら死ぬ、という人も多いんじゃないですか。ここで明らかに福耳先生はトリアージ式経営論を、平時の福祉業界に対して適用されるべきだと考えておられる。

しかし、むしろ、OGたちは「人道的」な「かわいそう」という発想を強靱に発揮するからこそ、自分自身を切りつめて燃え尽きるんじゃないですか。それを防ぐには社会的政策として、福祉業界への保障を増やすしかない。しかし、福耳先生は決してそうしたリソースが絶対的に不足しており、リソースの不足が許されないような状況においても、「資源の有限性を前提にした合目的的な配分」にこだわっている。「誰かを切り捨てなければならない」という犠牲を必然とする思考回路に嵌り込んでいる。福耳先生にとっては、なぜか「資源の有限性」は絶対的な信念に変わってしまっている。上記部分はそう読むことしかできないと思いますが。

いえ、少しお考えいただきたいのですが、「医療資源が十分にある状態」はそもそも実現不可能ではないでしょうか。全ての人間がブラック・ジャックであり、なおかつ必要な物資を常時携帯していても、手遅れで助けられない患者は必ず発生します。たとえば無人の山道で落石事故にあった人は、発見が遅れればどうやっても助からないでしょう。また、複数人が落石事故にあってどちらも喫緊の手当を要するとき、発見者が一人であっては片方しか助けられないでしょう。

事実として、そうである、ということと、認識としてそれは仕方がない、として批判的態度をやめてしまうこととは大きな隔たりがある、ということです。福耳先生は事実のみを語ったのではなく、併せて御自分の認識を語られたので、それをみなが批判して居るんです。

以下の記事を参照してみてください。
http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20080817

私の返答

長文コメントありがとうございます。この分量ならば、トラックバックでお願いしたいとも思いますが、今回は結構です。

「資源の有限性」と「切り捨てられてはいけないもの」との具体的な比較、というのが人が死に至るような状況では決定的に重要だ、ということです。

それはその通りです。

そこに「極限状況」を代入したら「トリアージ」が出てくるよ、というのが福耳先生の話です。当然、「極限状況」でない状況を代入すればもっと穏当な解が得られるでしょう。

福耳先生が批判されていたのは、まさにこの点でした。なぜ「極限状況」を代入しなければならないのか。あなたは、どれを代入しても思考実験としては等価であり、別に違いはないし、「資源の有限性」というルールを教えるためにはむしろ極限状況が望ましいともいえる、と仰るでしょう。

ええ、そう申します。一番極端な状況においてこそ、モデル自体の妥当性が一番強く問われることになるからです。そして、極限状況といえども現実に広く存在する状況である以上、目を背けてはいけない重要な事例です。

おそらく、福耳先生はこうした回答が出たら、「資源の有限性」をより強調するため、他に医者が誰もいない絶海の孤島での事例として再提出するんではないかと思います。しかし、これこそが問題なのです。ここで行われていることは、「誰かを犠牲にしなければならない」ことが「必然」となるように状況を操作することです。

たとえば、これが詰将棋の問題に不備があったとき問題を作り替えるとしたら、あなたはこれを非難なさりますまい。「将棋とトリアージが事例の価値としてまったく異なる」とあなたはおっしゃるのですから。しかしあなたがお忘れなのは、将棋は戦争ゲームであって、将棋の駒は兵士の擬人化なのですよ。将棋を考えるということは「人が死ぬ」という状況をモデル化したものを思考実験で、冷たい論理のもとに扱うということなのですよ。将棋は、相手の王様を詰めなければどうしようもないという状況なのですよ。それが許容されるのであれば、思考実験でトリアージが要請される状況を想定することのどこに問題があるのですか?
学問の自由は、タブーに敢然と立ち向かうことに価値があります。もっとおぞましい例を挙げるならば、ゲーム理論の本のいくつかには核戦争のモデル化が具体例として載っていますよ。そして、こういう考察は絶対に必要なことです。「囚人のジレンマ」的に、誰も望んでいないのに核戦争が勃発するような状況を事前に回避するために。

事実をどのように配置するかで、ただの事実の羅列以上の意味を持ってしまう、ということです。

一般論としては同意しますが、この場合がその批判にあたる理由がないというのが私が述べていることです。

そして、信念の押し付け、と見なされたのは、女学生の反応をナイーブだと見なして感情的に非難したからです。合理性の当然の帰結の話をしているのに、感情的反応を返すなんて、という風に反発してしまうことこそが、「ホロコースト」を可能にした「犠牲」を「必然」のものとする論理なんです。

現実に、トリアージが必要になる状況は、「犠牲」が「必然」な状況ではないですか。誰かの論理によってそうなったわけではない。状況の制約によって悲劇が不可避的に生じてしまっているんですよ。現実として。そして、その現実を考察することから逃げてどうするんですか?
話は変わりますが、私が一般教養の講義を受けているとき、臨床心理やフェミニズムの講義で性的な単語が乱舞するのはとても嫌なものでしたよ。しかし、私が「性的なことにこだわるのは下品だ」とでも言えばそれは「ナイーブ」と批判されて当然ですよ。その「下品さ」に敢えて切り込むことから得られた成果というものがそもそも説かれているのですから。私の仮想的なこうした「感情的な反応」だって、「否定されてはならない要素」ではありますが、それとこれは別でしょう?

ごく自然に切り捨てる側に立ち、切り捨てられる側への同情を否定したんです。なにがやばいって、ここが一番やばい。

経営学は文学ではありません。ここでの例題は「医療資源・人員を配置する立場に立って考えよ」という設定なのだから、ひとまずはその仮定を全うしなければなりません。
たとえば、「リンゴ5個を、子供2人に分けると、いくつずつ配っていくつ余るでしょうか」という問題に対して、「ジャムを作って半分ずつ分ければよい」というのは、実生活上の知恵としてはともかく、算数の問題への答えとしては失格です。中学生以上が「ジャム」なんてことを言えば当然「ナイーブ」ですよ、それは。

福耳先生は、OG(女性ですよ)が燃え尽きるのは、「合目的的な資源配分」をして、どうしようもない部分は切り捨てるのは仕方がない、という理性的な判断が出来ないから、燃え尽きるのだと考えておられます。(略)ここで明らかに福耳先生はトリアージ式経営論を、平時の福祉業界に対して適用されるべきだと考えておられる。(略)「誰かを切り捨てなければならない」という犠牲を必然とする思考回路に嵌り込んでいる。福耳先生にとっては、なぜか「資源の有限性」は絶対的な信念に変わってしまっている。上記部分はそう読むことしかできないと思いますが。

これについてはこちらの回答を繰り返すほかありません。動かしがたい現実がある以上、それに基づかない議論は意味がない。「太陽が西から昇れば」なんて話をしても仕方がないのです。

事実として、そうである、ということと、認識としてそれは仕方がない、として批判的態度をやめてしまうこととは大きな隔たりがある、ということです。

福耳氏が「語らなかった」だけのことから、それだけの意図を読み取るのは無理があると思います。

*1:この部分はコメントがメール送信されてきた時点で文字化けしていたもの。