捨て駒にされる将棋の駒は「かわいそう」か

とある架空の問答

「この将棋というゲームでは、持ち駒を全部捨て駒にしてでも、相手の王様を詰めることが大事なんだよ」
「そんなの、捨て駒にされた駒がかわいそうです!」
「このような、合理主義に基づいて目的達成のために無慈悲に犠牲を払う態度はホロコーストに通底する!」

はじめに

トリアージ騒動について呈した疑問に、id:sk-44氏、id:Apeman氏、id:K416氏、id:hokusyu氏、id:Dr-Seton氏から丁寧なお返事を頂いた。おかげさまで、私に理解できなかった問題の所在がようやく見えてきたように思えます。どうもありがとうございました。
しかし、その上でも私は福耳氏の講義に問題があると考えることはできない。この点で上記の各氏と私は見解を異にするように思えるので、その点を説明しておく。

福耳氏の講義に問題がないと考える理由

福耳氏の講義の主旨は、状況は所与のものとしてその中での行動を考えよという問題に関するものであって、トリアージはその一例として持ち出されたものである。
つまり、必要に応じて話の枠組みをあらかじめ限定した上でものを考えてみよ、というのが福耳氏の問題提起である。そして、これに対して「かわいそう」という反応は「ナイーブ」と呼ばれて当然であろう。話の前提を否定してしまっては何の意味もないからだ。
本記事冒頭に掲載した架空の問答はこの状況を説明したものである。この観点からすると、「トリアージのような極限状況を発生させないためにはまず医療資源を充実するなどの対策を取るべき」といった批判はずれているとしか言いようがないのだ。その話は、「資源が限定されていると仮定して」の思考実験を終えた後の検討としてなすべきことである。言ってみれば、361目という限定された陣地を取り合うゲームである囲碁を目の前にして、「碁盤を拡げれば石が殺し合ってまで陣地を拡げなくてすむのに!」と批判するようなものだ。意味がないのである*1
そして、私が「価値中立的」であると強調しているのはここでいう囲碁や将棋にあたる「思考実験」のことなのだ。なるほど確かに学問的成果を現実に適用する段階では倫理性が問われよう。それは当然だ。だが、思考実験の段階で様々な極限状況を想定しておくことは、現実に対峙する上でも有用な訓練であろう。極限状況においてトリアージを行うしかない、という結論を思考実験にて痛感することによって「トリアージをできる限り回避できる策を考えよう」というような思考も触発されるのである。
いずれにせよ、倫理が問われるのは、思考実験などの考察を得て結論を公表する段階であって、思考実験を行う段階ではない。そして、状況をモデル化して思考実験を行うという手法は多くの学問分野において普遍的に行われている方法論であり、これを批判するのはそれこそ無茶というものであろう。
以上のことを踏まえた上で、各氏のご意見にお返事する。

sk-44氏:机上の議論の段階では、どこにも問題はないと思います

引用元:Sokalianさんへの再レス - 地を這う難破船

現実をモデル化する際にナチスな価値判断が入ってくることの問題、が今回問われています。ナチスな価値判断とは何か。平時を極限状況と見なす発想のことです。

もちろん、モデルの適切さというものは存在します。そして、ホロコーストが現実のモデル化に基づく合理主義の帰結だとするのであれば、そのモデル化(目的や制約条件の設定)に倫理的問題があるはずです。それに異論はありません。
しかしそのことが直ちに、現実のある種のモデル化の問題を指摘するものではありません。例えば、ナチスにせよオウムにせよ、極端な価値観の元で行動している集団の行動を我々は分析するわけですが、これはまさに、ナチスやオウムが行った「現実のモデル化」を追究しているものです。そして思考実験でそれを追認することにより、彼らのどのような思考法に問題があったかを探り当てるのです。
このことから、ある種の危険性を元に思考実験自体を批判することは、逆にその危険性の内実に関するの思考停止を促すことになると言えるはずです。私はこれを危惧すればこそ、福耳先生への批判に強い関心を持っているのです。

Apeman氏:その判断は講義の主題から外れているのでは?

引用元:トリアージは包丁じゃないよ - Apeman’s diary

「道具」説が隠蔽してしまうのは、トリアージが何重もの意味で人間による意思決定だ、という点。まず(1)緊急時にはトリアージを行なうのだ、という意思決定があり、次に(2)「なにが緊急時か」に関わる意思決定があり、それから現場での(3)誰にどのタグをつけるかという意思決定(これは「どのような状態の人間にはどのようなタグをつけるか」という事前の決定、とした方がよいかもしれないが)、があるわけである。(略)トリアージそれ自体ではなく経営学の授業の中でトリアージが扱われたことが問題になったのは、主として(2)のレベルに関連して、だ。

福耳氏の該当回の講義の主題においては、「現在は緊急時である」というのは所与の仮定として与えられていたわけで、それは無い物ねだりというものではないでしょうか。先の将棋の喩えで言うならば、「王様を取りさえすればよい状況とは何か」ということを論じるのは、将棋というゲームの主題から外れているわけです。もちろん、「緊急時とは何か」を考えること自体は必要なことでしょうが、そうしたことは回を改めて行ってよい事項だと私は考えます。

K416氏:月とスッポンが類似する思考の枠組みは価値の本質と無関係

引用元:アホ話の補足 - 吾輩は馬鹿である(コメント欄)

論点となっているのは、fuku33さんの論(に象徴される論理展開)が、いかなる思想と親縁性を持つのかということなのではないでしょうか。つまり、問題とされているのは、「ある思想が、ある状況や出来事を実現してしまいかねない」ってことじゃなくて、「ある思想と、ある状況や出来事を導いた思想とは構造的に類似している/同型の思想である」という話です。

ある論理展開が「人を救う(ドラッカー)」「人を殺す(ホロコースト)」という両極端な結論を導き出してしまうのであれば、その論理展開の型自体が価値中立的だというだけのことではないでしょうか。その点で、そのご意見は「問題は論理展開ではなくその前提になにを持ってくるか、そこから何を結論するかである」という私の主張をむしろ裏書きされているように思えます。

hokusyu氏:「生かす」と「殺す」が一体化する元凶は「資源の制約」あってこそ

引用元:http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080812/p3

「生かす」ことと「殺す」こと、「生きるがままにしておく」こと、「死ぬがままにしておく」こと、これらのプロセスは、常にあるもう一方(あるいは複数)のプロセスと並行して行われるのです。

それはそうでしょう。しかし、それがどうして福耳氏批判になるのでしょうか?私にはそれがわからない。自明かつ非本質的な事実を指摘しただけにしか聞こえないのです。
「生かす」ことと「殺す」ことが表裏一体になってしまうのは、資源が有限であるという制約があるからで、この制約は人為的なものであると限らず、自然法則である場合もあります。だとすれば、その現実をモデル化するという行為に一体何の問題があるというのでしょうか。

Dr-Seton氏:お里が知れますよ

引用元:元増田は馬鹿である - シートン俗物記

キミの大好き(らしい)な「価値中立的」話などではない。福耳先生は、しっかりと自分の判断を加えて「トリアージ経営学」を称揚し、それに反応した学生を評価しているのだよ。

上に将棋の例を用いて述べたように、それは学問の価値などというような高級な話題ではない。「将棋をせよ」という課題を与えて、相手の王様を指でつまみ出す反則行為を行えば評価できないのは当然である。将棋というゲーム(つまり、トリアージの類推による現実のモデル化)自体に批判的な意見を持つようになった学生を批判したのとは訳が違う。

あとは付け足し。

これ以降は本当に「付け足し」であって、枝葉末節であったり私の論点を意図的に逸らしてご自身の書きたいことを書いているだけだと思えるので応答は省略させて頂く。ただし、一言だけ述べておく。

キミの示す態度は、あからさまに“東工大系”工学者のノリだ*3。

いくら脚注で「東工大生や出身者が皆こういう人ではない」という断ってはいても、こういう粗雑かつ有害な物言いをされる方が他人の講義の話題を批判する資格はないだろうし、ましてこのような方に倫理を説かれるなどは私としては一切御免被りたい*2

追記:トラックバック及びブコメ返信

極限状況においてトリアージを行うしかない、という結論を思考実験にて痛感することによって「トリアージをできる限り回避できる策を考えよう」というような思考も触発されるのである。

「ケーキ」をちゃんと読むといいと思います。福耳先生にはそんな意図まるで無いですよ。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080812/p3

確かに記述はされていませんが、「そんな意図まるで無い」という読解は非常に恣意的だと思います。私の感覚では「自明だから記述しなかった」だけのことかと。これは別に福耳氏に過度に好意的な反応というわけではなく、習慣化していることについては特に記述しないというのは当たり前のことです。例えば「横断歩道を渡った」という記述を読んで「お前は信号無視をした、なぜなら『信号を確認した』と書いていないからだ」と言えば、誰が見てもいちゃもんですよね。

b:id:Romance これはひどい, 三宅秀道 結局福耳が最悪って言う原点を共有するかしないかの話になってんじゃん/自称馬鹿のソーカリアンとはいえさすがにこれはひどすぎる

「福耳が最悪」が「原点」だったとは初耳です。そりゃまあ、「福耳が最悪」という前提に立てば福耳氏を批判する結論はトートロジーとして出てきますけれど。

b;id:tokoroten999 もう一回元エントリと派生記事読んできなよ。読んだ上でこれならもう話すことはない。あと例え話禁止な。

私こそ、「読んだ上でこれならもう話すことはない」としか申し上げようがありません。また、本記事の比喩が気にくわなければその部分を読み飛ばしてお読み頂ければ論旨はそれでも繋がるようになっています。比喩は論旨を明快にするための補助線に過ぎません。

b:id:tikani_nemuru_M 愉しい煽り 将棋の駒が将棋というゲームのルールに対して抗議したのなら、それは「かわいそう」であり、少なくとも考慮すべきことなのだよ/例え話が悪いとは思わんけどね、出来が悪すぎる。ソーカルが泣くぜ。

出来が悪いのは認めます。ところで、この場合の「将棋の駒」って誰ですか?

b:id:ruletheworld はてなタックル ブサヨと同じく極論に走る作戦?

私はこれを「正論」として書いたつもりで、これが「極論」としか読めないのであれば、思考実験というものを理解していないか、あるいは「理解を拒んでいる」ことだと言わざるを得ません。

b:id:Midas アホか。駒が、じやなくて将棋という特定のルールをもつゲームそのものが可哀相なの。例・1)死んだはずが何度も「敵方の」棄て駒として生まれかわって戦場へ投入される2)出世の為には敵陣へ切込まねば(笑)ならない

あなたが将棋をお嫌いなことはわかりました。注釈に書いた通り、私も「信長の野望」や「大戦略」が嫌いです。程度の差はあれ戦争ゲームが嫌いな者同士、仲良くしましょう。もっとも、そうした個人の嗜好を議論の場に持ち込むことはお互い慎みましょう。

*1:もちろん、ゲーム自体の嗜好というものはあり得る。例えば私はコンピュータゲームの「三國志」や「信長の野望」は嫌いだ。戦争を娯楽にすることに生理的に堪えられないものがある。しかし近代戦を舞台にした「大戦略」はもっと嫌いであり、逆に「ドラクエ」には何の問題も覚えないし、囲碁や将棋は洗練された文化であると思っている。こういう私の嗜好はある程度受け容れられるものと思うが、倫理的一貫性も何もないことは明らかだろう。それ故、私は囲碁や将棋を殊更他人に勧めようとも思わないし、「大戦略」を糾弾しようとも思わない。

*2:蛇足ながら、私の知る限り東工大関係者には、真面目で善良な方が多いように感じる。だが、そもそも世の中の人間の多数は真面目で善良であろうし、私ごときの主観が何の意味を持つとも思わない。